初めてフェミニズムに触れたのは10代の頃、上野千鶴子氏の『セクシィ・ギャルの大研究』がきっかけだった。もちろん現在の岩波現代文庫版ではなく光文社のカッパ・サイエンス版で、タイトルだけ見てそそくさとレジに持って行ったのをおぼえている。
ところが読みはじめて面食らった。そこには10代男子が期待していたようなスケベな話は一切なく、むしろこちらのスケベな視線そのものが俎上に載せられ分析されていたからだ。丸裸にされたのはこちらの方だった。
ただ読後感は不思議と清々しかった。その時感じたのは、自分のOSが更新されたような新鮮な感覚である。それまで見えなかったものを認識できるようになり、ぼんやりしていたことを多少なりとも言葉で説明できるようになった気がした。本を読むことで自分が変わるのは、読書の醍醐味のひとつだ。以来、フェミニズムの本を読むようになった。
本書もこの分野への関心から手に取ったが、その視点に意表を突かれた。著者はなんと「焼き芋」や「ドーナツ」を切り口に女性史に新しい光を当てる。日常のありふれた食べ物を糸口に歴史に埋もれていた物語を掘り起こすのだ。それは、女性たちが「わたし」という主語を獲得するまでの物語である。知的興奮を呼び起こす一冊だ。
本書がフォーカスするのは、日米の産業革命期の働く女性たちである。第一部では日本の女性たちが、第二部ではアメリカの女性たちが描かれる。
日本に産業革命が到来したのは20世紀初頭。この時期に各地で次々と工場が操業を開始した。この時代の女性労働者を描いたルポルタージュの傑作といえば、『女工哀史』をおいて他にない。作者は細井和喜蔵。細井はこの本を世に問うて間もなく亡くなった。
有名なこの本に関連して、もうひとつの『女工哀史』が存在することはあまり知られていない。タイトルは『わたしの『女工哀史』」。作者は高井としをという女性である。細井の内縁の妻で、自らも女工として働き、細井の執筆や取材にも深く関与していた。いわばもうひとりの執筆者といえる存在だが、籍を入れていないという理由で『女工哀史』とは関係がないとされたばかりか、莫大な印税も手にすることはなかった。
高井としをの本にあって『女工哀史』にないもの。それは「わたし」という主語だ。
『女工哀史』は劣悪な労働環境を人権問題として訴えるものの、実はその中に固有の女工はほとんど登場しない。これに対して『わたしの「女工哀史」』では、具体的な人間関係を含めた女工たちの日常世界が生き生きと描かれる。
男たちが好む自由や人権をめぐる「大文字の議論」、あるいは女性労働者を一括りに資本主義の犠牲者とみなす「マスター・ナラティブ」。これらに著者が対置するのは、働く女性たちそれぞれの生活世界に細やかに目を向けることだ。こうした女性たちの等身大の日々のありようを、著者は「日常茶飯の世界」と呼ぶ。
男たちの声高な「大文字の議論」ではきまって「労働」が議論の中心で、「生活」は「取るに足らない」ものとされてきた。日常茶飯の“茶飯”などその最たるものだ。特に主食や朝昼晩のように役割が明確な食事以外のもの、つまり「おやつ」や「間食」はほとんど無視されてきた。
著者はこれまで等閑視されてきた嗜好品に豊かな可能性を見出そうとする。「社会」や「世界」を形作ってきたのは、無名の人々の「取るに足らない」日常のディテールの積み重ねだからだ。おやつや間食はその象徴である。
女工たちは確かにひどい環境で働いていたかもしれない。だが一方で、自分の稼いだお金で外食をする楽しみも味わっていた。これはそれ以前の時代にはなかった変化だ。彼女たちがなにより楽しみにしていたのは、勤務を終えた後や休日に商店街や市場に繰り出し、工場の中では食べられないものを食べることだった。焼き芋はその代表的な食べ物のひとつだった。
好きなものを食べながら仲間とおしゃべりに興じる。それは単なる息抜きを超えて、自分の力で生きていることを実感できる瞬間だったことだろう。こうした中から女工たちは「わたし」に目覚めていったのだ。
「糸と饅頭」「焼き芋と胃袋」「米と潮騒」「月とクリームパン」「野ぶどうとペン」「パンと綿布」「キルトと蜂蜜」「ドーナツと胃袋」。各章に食べ物にちなんだ魅力的なタイトルが並ぶ。美味しそうなタイトルに惹かれて読み進むうちに、次第に歴史に埋もれていた日米の女性たちの交流が浮かび上がってくる。点と点に過ぎなかったものが思いもよらない縁によって結ばれる。『小公女』などで知られるフランシス・ホジソン・バーネット、『若草物語』の作者として知られるルイーザ・メイ・オールコット、マサチューセッツ工科大学の扉を女性で初めて開いたエレン・スワロウ・リチャーズ、近代女子教育に尽力した津田梅子……。こうした人物が意外な運命の糸でつながっていく。
それは暗い夜空に見たこともない美しい星座が現れたかのような驚きをもたらす。海を超え、世代を超えて、女性たちがバトンをつないでいたことに感動をおぼえずにはいられない。このバトンリレーを別の言葉でいえば「シスターフッド」ということになるだろう。本書は日米の近代史をシスターフッドの視点で読み直すものでもあるのだ。
シスターフッドは本書のいたるところに見出すことができる。
たとえば、社会から忘れ去られようとしていた高井としをの人生や作品に光を当てたのは、としをと同じように紡績工場で働きながら夜間短大で学んでいた女子学生たちだった。1970年代のことだ。彼女たちはまだ存命だったとしをのもとに何度も足を運び、その語りに耳を傾け記録した。これが後に『わたしの「女工哀史」』の出版へとつながった。
本の内容からの連想でシスターフッドを実感したこともある。
2019年に公開された映画『ストーリー・オブ・マイライフ――わたしの若草物語』は、登場人物のジョーに作者のルイーザの人生を重ね合わせたものだった。監督はグレタ・カーウィグ。彼女が手がけ今年話題になったのが、あの傑作『バービー』である。わたしのまわりでも女性たちの反響は凄かった。特に「泣いた」という声が多かったのが印象に残っている。女性たちのバトンリレーはいまも続いているのだ。
本書のエピローグで著者は、ノンフィクション作家で詩人の森崎和江らがかつて刊行していた女性交流誌の創刊号に掲げられた言葉を引く。それは次のようなものだ。
わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。
無名にかえりたいのです。なぜなら
わたしたちはさまざまな名で呼ばれています。母・妻・主婦・婦人・娘・処女……。
誰かに決められた呼称を捨て、「わたし」を取り戻し、「わたしたち」を生きる――。本書が描くのは、生きる実感を切実に求めてきた女性たちの姿である。
最後に男性としての感想を。フェミニズム関連の本を読むといつも、自分が男であることの意味を考えさせられてしまう。
著者は森有礼や大原孫三郎といった女性たちを支えることに尽力した男性にも目を向けているが、彼らのように、空疎な「大文字の議論」ではないところから「わたし」の考えを発信し行動できる男性が(自分自身も含め)どれだけいるかと考えると非常に心もとない。とかく男は群れたがる。「わたし」という主語が欠落しているのは、むしろ男のほうではないだろうか。
『バービー』では、男たちの争いが結局じゃれあいに落ち着くという予定調和が風刺されていた。女性のシスターフッドには「連帯」の意味があるが、群れる男たちの「ブラザーフッド」は、現代においては「バカ」の別名になってしまっている。
いま男性に求められているのは、「オレたち」の群れを抜け、いかに「わたし」を取り戻すかということなのかもしれない。