論理にねじ伏せられていく快感『そこにある山 ー 人が一線を越えるとき』

2023年12月22日 印刷向け表示
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作者: 角幡 唯介
出版社: 中央公論新社
発売日: 2023/12/21
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角幡唯介の名を初めて知ったのは二〇一〇年、『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』を読んだ時だった。心底驚いた。探検――子どもの頃から思い描いていたイメージの探検――などというものは、すでに世の中からなくなってしまったと思い込んでいたからだ。しかし、その本には、真の探検があった。誰も踏査したことがないからというだけの理由で、命を懸けた冒険に臨む人間が同時代に生息しているということに意味もなくうれしくなった。この本、開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞と、賞を総なめにしたのも当然だろう。

いきなりファンになった訳だが、同時に、こんな探検をいつまでも続けることができるのだろうかと勝手に心配していた。もはや地球上にそんな場所はほとんど残されていないのではないか。たとえあったとしても、角幡が望むような単独行動で生きて帰れる探検をできる場所など。しかし、それは杞憂であった。

探検のスタイルが半端ではない。いったいどんな人なのだろうかと思った。写真を見ればえらく男前である。キレッキレでシャープ、マッチョな人に違いないと思った。しかし、その想像は、歌手・峠恵子の著書『冒険歌手 珍・世界最悪の旅』(山と渓谷社)によって脆くも崩され去った。ヨットでの航海によるニューギニア冒険記なのだが、同行者として探検部の現役大学生「ユースケ」が登場する。なんと、えらくヘタレに描かれているそのユースケが、誰あろう角幡唯介なのである。う~ん、イメージがちがいすぎる。

まぁ、それは、若き日の角幡、空白の五マイルの完全踏破に挑む十年近くも前の話である。早稲田大学を卒業し、朝日新聞に勤め、『雪男は向こうからやってきた』(集英社文庫)に書いたネパール雪男捜索隊に参加などして、変容を遂げ、マッチョになられたに違いない、と考えることにした。しかし、それもどうやら間違えていた。

わたしだけかもしれないが、早稲田大学探検部と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは辺境作家・高野秀行である。角幡が大宅壮一ノンフィクション賞を受章した際にブログで、「ノンフィクション界の村上龍。凄すぎるじゃないか。」と、受賞を(たぶん)素直に喜んでくれた良き先輩だ。ちなみに、高野は後に『謎の独立国家ソマリランド』で、講談社ノンフィクション賞を角幡の『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』と同時受賞することになる。

高野と角幡の対談『地図のない場所で眠りたい』(講談社文庫)がおもろすぎた。角幡の本を読んでおられる方なら、高野の本も読んでおられるはず(←イメージです)と思うので書くまでもないだろうが、ミャンマーでアヘン中毒になるなど高野秀行はかなりぶっとんだところ(←いい意味です、念のため)がある。角幡の話す内容が、そんな高野に一歩もひけを取らないのだ。たとえば、角幡がコンプレックスの塊だったという話になり、その理由を尋ねられて、「僕、チン毛生えたの中3のときだったんですよ(笑)」と告白するって、あんまりやないの…。いよいよもって、角幡唯介とはどんな人なのかわからなくなった。

話を戻そう。どうして杞憂だったかというと、四ヶ月以上の間、真冬の北極圏を一人で歩く『極夜行』(文春文庫)の内容が凄まじかったからだ。『空白の五マイル』を読んだ時よりも驚いた。すこしイマジネーションを働かせないとわかりにくいのだが、極夜は白夜の反対、一日中、陽が昇らない暗闇の中に閉じ込められる。それも酷寒の極地を行かねばならないのだ。なんとGPSなど持たずに、コンパスと六分儀による天体観測だけをナビゲーションにして。

ほとんど徒手空拳の単独行、これぞ冒険ではないか。シロクマに襲われる危険性もあるし、自分の居場所がわからなくなる可能性もある。不測の事態があれば、死んでしまってもまったく不思議ではない。そうなれば、おそらく遺体も見つからない。凄すぎるではないか。まぁ、そういう凄さと「中3でチン毛」的発言が共存してもいいのではあるが、頭の中の角幡唯介がなかなか結像していかない。

いまはもう引退しているが、長い間、生命科学の研究に携わっていた。こう書くと、さぞ、いつも思索にふけっていたと思われるかもしれないが、決してそのようなことはない。文系の学問と違い、理系では、余計なことをそぎ落として最短距離の理屈を見つけようとするので、考える時間は短めである。もちろん、研究のアイデアを思いつかねばならないが、それは考えるというのとはすこし違う。考えすぎると深みにはまり込んで堂々巡りのようになってしまうことがあるからだ。

中国の北宋時代、欧陽脩は、文章の着想を得るのは「三上」、すなわち「馬上、枕上、厠上」だとのたもうた。いずれもリラックスしている時にひらめくと解釈されるようだが、馬上は少しちがうのではないか。枕上と厠上では弛緩しきっているが、馬上ではちょっとした注意力が必要である。心理学の研究によると、あまり集中しすぎずにぼんやりと考える、すなわち、ちょっと他のことに気をとられながら考えるのが何かを思いつくにはベストだとされている。自分のことを思い返しても、山道を歩いている時や自転車通勤をしている時にけっこういい研究のアイデアがひらめいたりしたことがある。

極地を歩くとなると、もちろん注意力が必要だが、常にフルでという訳ではなさそうだ。次々といろいろなことが思い浮かぶのではないか。そして、歩いていない時は、思いついたことを深く考えることができたのではないか。それに、疲労が堂々巡りを妨げる。そういった着想と思考が、この本『そこにある山』に結実したのではないかと想像している。

単行本も文庫本もタイトルは同じ『そこにある山』だが、サブタイトルは違っていて、前者が『結婚と冒険について』で後者が『人が一線を越えるとき』である。意図された訳ではないだろうが、あわせると、結婚も冒険も一線を越えることが大事だと読めなくもない。そして、この本は、まさにそういった内容についての本なのだ。一線を越えるためのキーワードは「事態」である。

この本の単行本を読み終えた時、九鬼周造の『「いき」の構造』レベルの考察、と思わずツイッター(現在のX)でつぶやいた。さまざまな角度から哲学的な考察をおこない、粋とは「垢抜けして、張りのある、色っぽさ」と喝破した名著である。すこし誉めすぎのような気がしないでもないが、本当にそう思ったのだから仕方がない。九鬼にならって、『そこにある山』は『「事態」の構造』というタイトルでも不思議ではない。と書いても何のことだかわからないだろうから、本の中に踏み入っていこう。

「結婚の理由を問うのはなぜ愚問なのか」と題された序章から本書は始まる。他の章とほぼ同じ長さなのに序章とされているのは、この章だけが扱う内容が異なっているからだろう。他の章が探検についての考察なのに対して、序章は結婚についてである。よく受ける質問が「どうして冒険しているのですか?」から「なぜ結婚したのですか?」に移行してきたという。どちらも尋ねたくなる人の気持ちはわかる。だが、前者は角幡の本を読めばわかってくるから、次第に後者になっていったのだろう。危険を承知の冒険に出かけるには、家族があると抑止力になってしまいそうに思えるからだ。しかし、角幡にとっては愚問でしかない。

なぜなら、結婚などというものは決して合理的な選択の結果などではなく、事態、すなわち、「私の過去そのものの現在における隆起」としての事態によるものだから、というのがその理由だ。あくまでも事態であるから、その道を進む以外は考えられない、というのである。かといって、事態が出来するのは決して必然ではない。むしろ「事態が立ちあがるきっかけは偶然の出来事であり、そこから発生する他者との関わりである」と論じていく。

この文章から、結婚にいたる「事態」をうけての第一章「テクノロジーと世界疎外――関わること その一」は始められる。そこで語られるのは、GPSをはじめとする情報通信と、世界との関わり方についてである。「GPSはおのれと対象とを切断する」この言葉に角幡の信念を感じ取ることができる。逆説的だが、GPSを通じて世界と通じることによって、身の回りとの関係性が失われてしまうというのだ。極地で四ヶ月ものあいだ情報通信を断った角幡の言葉だけに迫力十分だ。

第二章「知るとは何か――関わること その二」は、「何かを深く知るためには、その対象と親密な関係をもつしかない」という文章に集約できるだろうか。これは「対象に深く関与し、自らの手を汚し、痛い目に遭わなければ、物事のあり様を理解することにはつながらない」と続く。ここでいう対象は人間でもいいし、冒険ならば北極ということであっても同じことだという。相当に普遍的である。

続く第三章「本質的な存在であること(二〇一九年冬の報告)――関わること その三」は「自分の行為に自分がいかに本質的に関わるか」について考察が深められていく。自分の行為に自分が本質的に関わる。かつては自明であったはずのことが「システムが異様なまでに複雑化した現代社会において、これは決して当たり前のこと」ではなくなってしまっているという問題提起である。ここでの中心テーマは極夜行で用いた犬橇だ。生きものと道具が一体となったいささか特殊な移動手段に角幡がいかに関わっていったか。その活き活きとした経験が行為の本質論へと昇華していく。

ここまでが、事態ができあがるまでの「関わること」についてで、次の二章「漂白という〈思いつき〉――事態について その一」と「人はなぜ山に登るのか――事態について その二」は、いかにして、ここまで論じてきた「関わり」が「事態」へと展開していくかについてである。そのプロセスには、思いつくこと、たとえばこんな冒険をしてみようとかいう思いつき、が必要であるという。思いつきというと場当たり的に感じられるが、決してそうではなく、その内部には「その人の歴史の全過程が凝縮」している。なるほど、と首肯されないだろうか。

内容は高度だが、文章はとてもわかりやすく、実体験から繰り出される論理に気持ち良くねじ伏せられていく快感すら覚えた。『「いき」の構造』は、文体が少し古くて硬いけれど、内容が面白いので決して読みにくいものではない。そんなアホなと言われそうだが、粋というようなものでも哲学的に考察できるというパロディーみたいな感じで読めてしまったことをよく覚えている。まったくの素人考えだが、そこには、祇園のお茶屋から大学へ通ったという伝説のある九鬼周造が、八年にもわたるヨーロッパ生活でさまざまな対象と関わった経験がものを言っているはずだ。

対象や内容は違えど、実体験にもとづく哲学的考察という意味では、角幡も決してひけはとるまい。それに、角幡の本の方がはるかに実際的だ。「いき」の構造を知ったからと言って実生活で得ることは少なそうだが、角幡いうところの「事態」の構造を理解しておくと、人生を気楽に捉えられるようになる。

「もし合理的判断にもとづき、意志や意図により人生をコントロールしようとしたら、それは時代や世間の価値観にあわせた借り物の人生になってしまうだろう。偶然とむきあい、事態にのみこまれ、思いつきを肯定しておのれの過去を引きうけることによってのみ、人はその人自身になってゆくのである。」

これは、終章「人生の固有度と自由」の最後の文章である。人生をコントロールすることなど所詮できっこない。「事態」ということをしっかりと認識し、それを受け入れる。きっと、それこそが素敵な人生をおくるための極意である。角幡唯介に拍手したくなってきた。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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