『絶海――英国船ウェイジャー号の地獄』訳者あとがき

2024年4月23日 印刷向け表示
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作者: デイヴィッド・グラン,David Grann
出版社: 早川書房
発売日: 2024/4/23
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本書『絶海――英国船ウェイジャー号の地獄』は、2023年にダブルデイ社から刊行されたデイヴィッド・グランのノンフィクション、The Wager: A Tale of Shipwreck, Mutiny, and Murder の翻訳である。

原書は、刊行された2023年4月からこれまで40週以上連続でニューヨーク・タイムズのベストセラーリストにランクインしている。オバマ元大統領の2023年読書リストに選ばれた他、CBSニュースの番組「60ミニッツ」が本書と著者グランの特集番組を制作放映。ウォール・ストリート・ジャーナル、GQ、エコノミスト、ボストン・グローブ、ニューヨーク・タイムズ、トロント・スター、ロサンゼルス・タイムズ、ニューヨーク・マガジン、タイム、グローブ・アンド・メール、エル、エアメール、ブックリスト、カーカス・レビュー、パブリッシャーズ・ウィークリー、朝日新聞GLOBE+ 等々、テレビ、新聞、雑誌、書評サイトなどでも取りあげられ話題となっている。

やはり圧巻の調査力

2017年出版のデイヴィッド・グラン著『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(早川書房、単行本は『花殺し月の殺人』)では、図書館や博物館、公文書館の資料をひもとき、当事者の子孫に取材を重ねて100年ほど前の未解決事件の様相を明らかにしており、その見事な情報収集力とストーリーの構成力に驚かされた。

本書執筆のきっかけも、やはり古い資料だという。280年ほど前の古びた航海日誌のデジタルコピー版を目にして、著者グランは内容のすさまじさに興味を引かれた。そこで、一次資料に当たるため、英国の国立公文書館を訪れる。18世紀の英国軍艦の航海日誌や点呼簿を閲覧し、傷んだ紙がさらに損傷しないようペンを使ってそろそろとページを繰りながら読み進めていたところ、乗組員の名前のリストの脇に「DD」の文字が並んでいることに気づく。「死亡除隊」の意味だ。その人数のあまりの多さに驚き、このDDの羅列パターンの意味することを解き明かすことにする。

インドア派を自認するグランだが、執筆に当たっては現地取材することを志(むね)としており、2019年、ニューヨークの自宅からチリ側のパタゴニア沖に位置するチロエ島に飛んでいる。52フィート(約16メートル)の船をチャーターし、そこから数時間、荒れる海をウェイジャー島に向かい、そこでウェイジャー号の残骸の実物も目にした。船上では船酔いが治まらず、気を紛らわすためにメルヴィルの『白鯨』をオーディオブックで聞いたそうだ。

二年をかけたこうした緻密な調査資料を元に、グランはストーリーがどこに行き着くかわからないまま書き始めた。そして五年の歳月をかけ、おぞましくも刺激的で生命力に溢れたサスペンスタッチの海の冒険譚が完成する。ノンフィクション作品でありながら、作品世界に没入できる読み物に仕上がっている。調査については、巻末の「参考文献について」もご参照いただきたい。

ストーリーについて

本書は、五つのパートで構成されている。パート1は出航から洋上で孤立するまで、パート2は無人島への漂着、パート3は無人島でのサバイバル生活、パート4で島からの脱出、パート5で帰国後の軍法会議を描いている。

日本では徳川吉宗が八代将軍を務めていた1740年9月、英国軍艦ウェイジャー号は、財宝を積んだスペインのガレオン船の拿捕という密命を帯び、小艦隊の一隻としてポーツマス港を出航する。だが、約8カ月後の5月、パタゴニアのチリ側沖で嵐に遭遇し、他の船とはぐれ座礁。航海中、多くの者が発疹チフスや壊血病で命を落としたため、当初約250人いた乗組員は145人に減っていた。

ストーリーは、主に三人の人物、つまり三人の残した航海日誌や報告書を中心に描かれている。第一の人物は、ウェイジャー号艦長のデイヴィッド・チープだ。チープは、漂着した島でも英国海軍の秩序を保とうとし、野営地を大英帝国の前哨基地と見なして船の上と同じ指揮系統と軍規を守るように指示する。しかし、厳しい寒さと飢えに苛まれると、生存者たちは無政府状態に陥り反目し合う。「万人の万人に対する闘争」状態に陥った、と著者は17世紀の哲学者トマス・ホッブズを引き合いに出している。

そんな混乱状態でリーダーシップを発揮するのが、第二の人物である掌砲長のジョン・バルクリーだ。バルクリーは、下働きから出世した苦労人だが砲術のみならず航海術にもサバイバル技術にも長け、天性のリーダーシップを持ち合わせていた。生存者たちは次第に、艦長チープ派と掌砲長バルクリー派、どちらにも与しないはぐれ者集団の大きく三派に分かれていく。

第三の人物は、艦長チープ派と掌砲長バルクリー派の間に立たされる士官候補生のジョン・バイロンである。後の詩人バイロン卿の祖父となる人物だが、遠征参加時には16歳で、そのみずみずしい感性で異国の動植物について細やかな観察記録を残している。島では、海軍の指揮系統を遵守するならチープ艦長派につくべきだが、バルクリー派についたほうが祖国に生きて帰れる可能性が高いのではないかと思い悩む。

彼らが漂着した島は、他の船に救助される希望がほぼ見込めない上、食料がほとんど手に入らない不毛の島だった。一度はパタゴニアの先住民、カウェスカルの人々に遭遇し、食料を提供されるが、一行の内紛状態に気づいたカウェスカルの人々に見棄てられてしまう。漂着者たちは強烈な飢えに苛まれ、中には幻覚を見る者や、死んだ仲間の肉を口にする者、仲間を殺害する者、貯蔵庫の食料を盗む者などが現れた。こうした人間性を試される場面の数々は、本書冒頭に引かれたゴールディングの『蠅の王』を彷彿とさせる。

出航から1年4カ月後の1742年1月、バルクリー派はウェイジャー号の装載艇を改造した小舟でブラジルの海岸に漂着する。同乗者は30人に減っていた。ポルトガル領だったブラジルの総督は、荒れる海を小舟で100日以上も航行してきたバルクリー一行の漂着は奇跡だとして手厚くもてなし、英国に帰国させた。

それから半年後、別の小舟がチリのチロエ島に漂着する。乗っていたのは、チープ艦長たち三人で、ブラジルに漂着したバルクリー派とは正反対の主張をする。バルクリーたちは英雄ではなく反乱分子だというのだ。

両者の非難の応酬は注目されるところとなり、同時代や後世の者にインスピレーションを与えてる。哲学者のルソー、ヴォルテール、モンテスキュー、生物学者のチャールズ・ダーウィン、作家のハーマン・メルヴィル、パトリック・オブライアンらだ。

スペイン領で捕虜となり数年の拘束を経てチープたち三人が英国に帰還すると、軍法会議が開かれる。説得力のある供述ができなければ、反逆罪に問われ絞首刑になりかねない。世論を味方に付けようと、生存者たちはそれぞれ自分の言い分を喧伝したり自らの航海日誌を出版したりする。世間が固唾を飲んで成り行きを見守る中、軍法会議を開いた海軍本部の下した判断は意外なものだった。

帰国後に航海日誌を出版した生存者たちに大英帝国の思惑に加担しようという意図はなかっただろうが、自らの保身を図ることで無思慮に加担したと著者グランは断じている。帝国の思惑とは、未開の先住民の文明化という植民地主義を掲げ、他民族の支配を正当化したことである。

加えて、白人が南米大陸の先住民の人々に及ぼした影響についても指摘する。グアラニの人々が、白人入植者によって迫害されたり病気を持ち込まれたりして大幅に人口が減ったこと。マゼラン一行が出会った先住民を巨人族として描き、その地域を「前足」を意味するパタゴニアと呼ぶことで、先住民を人間以下の存在とし、自分たちの征服を正当化しようとしたこと。ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、英国が他民族を植民地支配することに対する賛歌であったこと、等々である。その一方で、カウェスカルの人々が厳しい寒さにうまく適応していたため、20世紀に入ってNASAが宇宙空間で生き延びるための参考にしようと宇宙飛行士にカウェスカルの人々の知恵を学ばせたことや、必要最低限の家財道具をカヌーに積んで家族とともに移動する海の遊動生活により、一カ所の資源を採り尽くさずにすんだと人類学者が指摘していること等、先住民はけっして未開などではなく持続可能な生きる知恵を持っていたことにも触れている。その上で、巻頭の「著者覚書」で、著者グランは歴史の審判は読者に委ねると述べている。

著者について

著者デイヴィッド・グランについては、本書の「謝辞」に家族のことが記されているが、作家としてのキャリアをスタートさせるまでの前半生も紹介しておこう。

グランは、医師の父と、後に大手出版社ペンギン・パットナム社初の女性CEOとなる母の下にマンハッタンで生まれている。少年時代をコネチカットで過ごし、18歳でコネチカット大学に入学。ラテンアメリカを中心とする国際関係政治学を専攻した。大学在学中、コスタリカに留学し、その後、米国以外の地域での探検に対する助成金トーマス・J・ワトソン・フェローシップを獲得し、メキシコの一党独裁体制についてフィールドリサーチを行なう。この頃、メキシコの日刊紙ラ・ホルナダが発行する英語雑誌でフリーランスの記者となり、ジャーナリストとしてのキャリアをスタート。大学では、作家ブランシュ・マクラリー・ボイドの指導でノンフィクションのストーリーテリングの技術を磨いた。

大学卒業後、ワシントンDCのザ・ヒル紙に入社し、議会番の記者となる。だが、議会の権謀術数にうんざりし、ギャングや殺し屋、シャーロック・ホームズ研究者の変死といった実話に秘められた人間の本質に興味をもつようになる。そして2003年にニューヨーカー誌に入り、現在のように、スタッフライターと作家を兼務するようになった。

邦訳された著書は、本書を含め三作品ある。『ロスト・シティZ 探検史上、最大の謎を追え』は、インディ・ジョーンズのモデルとなった英国人探検家の足取りを追い、著者自らアマゾンの奥地を取材している。この作品を原作として、ジェームズ・グレイ監督、チャーリー・ハナム主演で映画『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』が制作された。また、2017年刊のアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)受賞作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、刊行直後だけでなく、映画の撮影が本格化したことが報じられるようになった2021年末から120週以上連続でニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りを果たしている。この作品を原作として、2023年10月にはマーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ、リリー・グラッドストーン、ロバート・デ・ニーロ他出演の映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』が公開された。206分という長尺であることに加え、北米先住民の血を引くリリー・グラッドストーンが第96回アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされる等、10部門でノミネートされたことで記憶に新しい。

なお、本書も映画化されることが決まっている。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』と同じく、監督のスコセッシと主演のディカプリオが再びタッグを組む予定だ。スコセッシ監督は再現性を重視することで有名だが、ウェイジャー島付近の荒れる海でロケを敢行するのだろうか。どこかに大がかりなセットを組むのだろうか。ディカプリオはどの役を演じるのだろうか。今から想像が膨らみ、完成が楽しみでならない。

2024年3月 倉田 真木

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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