芥川賞作家によるADHDをめぐる私ノンフィクション 『あらゆることは今起こる』

2024年5月27日 印刷向け表示
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『あらゆることは今起こる』、芥川賞作家・柴崎友香さんの最新作である。いかにも小説っぽいタイトルだが、そうではない。柴崎さんが40代の後半でADHD(注意欠如・多動症)と診断を受けられ、治療薬のひとつであるコンサータを服用、いかに変わられたか。その自分の経験からADHDやASD(自閉スペクトラム症)といった発達障害について考えていかれるノンフィクションである。

小学校六年生の修学旅行で夜更かしして翌日眠たくて、それ以来一回も目が覚めた感じがしなかったんですが、今、三十六年ぶりに目が覚めてます

それって映画「レナードの朝」のロバート・デ・ニーロやん、と思わず突っ込んでしもた。スンマセン。柴崎さんがコンサータの最初の一錠を服用された時の感想だ。つい小説的な表現かと思ってしまいそうやけど、「比喩でもないし誇張でもない」と続けられている。

ドーパミンやノルアドレナリンという名前は聞かれたことがあるだろう。脳内でそれぞれ、快感や意欲、集中力や判断力を刺激する神経伝達物質である。両者とも神経細胞の末端から分泌され、次の神経細胞へと信号を伝達する。分泌されっぱなしではなくて、神経細胞表面にあるトランスポーターによって取り込まれる。コンサータは、そのトランスポーターの機能を阻害し、ドーパミンやノルアドレナリンの濃度を上げることによって作用を増強する薬剤である。ただし、精神的依存の生じる可能性などから、その処方が厳密に管理されている。

柴崎さんは、服用する量を慎重に調節しておられるためかもしれないが、「薬を飲むようになって目が覚めた」とはいえ、「頭の中がすごく静か」とか「定型の人はこんなに頭の中が整理されているのかと驚いた」とまではいかず、

おそらくそこまで眠くない人が想像する「覚醒状態」ではないと思う。たぶん、「普通」くらいである

らしいが、それでも生活がずいぶん楽になられた。

いちばん困っていたのは「一日にできることがとても少ない」ことだったという。それに、眠かっただけでなく、「地味に」困っていたことがいくつか紹介されている。スクリュー型の蓋が閉めにくいとか、丸首のTシャツやセーターが後ろ前になりがちとか、方向音痴ではないけれど方向感覚がつかみにくいとか。他にも「人に助けを求めることが苦手」らしい。ぜんぶがADHDのせいかどうかはわからへんけど、すごく的確に描写されていて、まるで柴崎さんの頭の中を覗かせてもらってるようだ。

コンサータによってドーパミンがよく働くようになると「脳の報酬系が働いている」状態になる。そのことを、「脳内に励ましの歌コーラス隊」がいるという喩え話で説明されている。ADHDの人は、「脳内のコーラス隊が子どもである」から困ってしまうという。

励ましコーラス隊が子どもなので、勝手にうろうろしている。集まって、歌ってくれない。どこかに行ってしまう。かと思ったら、なにかおもしろそうなものや好きなお菓子が出てきたらわーっと集まりすぎて大騒ぎする

コンサータは彼らにはほどよいおやつや快適さを与えるもの、ということで

さすがやわ。トランスポーターがどうのこうのよりも、はるかにわかりやすい。

このあたりまでがパートⅠ「私は困っている」で、「他人の体はわからない」がパートⅡ、そして、パートⅢの「伝えることは難しい」につづく。

そんなふうに見えないからこそ、だいじょうぶじゃない

思わず、すみませんでした、と謝った。柴崎さんとは、読売新聞の読書委員会で1年間ご一緒だったし、何度もお話したことがある。けれど、ついぞADHDとは思ったことがなかった。ちょうどそのころにコンサータを飲み始められたようだが、それも当然ながらまったく気づかず。なので、なんか申し訳ない気分になってしもたのである。

妻が小児精神医学の専門で、軽度とはいえ「あんたはADHD」という診断が下されている。子どものころに比べるとずいぶんと改善しているとはいえ、自分でも思い当たることがあるし、女性のADHDはわかりにくいという知識もある。それでも、柴崎さんがADHDとはまったく思いもよらなかった。

パートⅣ「世界は豊かで濃密だ」の「複数の時間、並行世界、現在の混沌」、「自分を越えられること」、「向いている仕事」あたりを読んだら、ごく素直に、すごいなぁと思えてくる。小説家・柴崎友香がいかに成り立っているか、といえばちょっと大げさかもしらんけど、それを垣間見させてもらえたような印象すら湧いてくる。

私は今までに自分がいたいくつもの世界を、ずっと同時に生き続けている

熱烈とまではよういわんけど、柴崎作品のファンである。なかでも不思議な時間感覚のある「ビリジアン」とか「パノララ」とかがとりわけ好きだ。病跡学というほどやないけど、「あらゆることは今おこる」ような感覚がそういった作品に繋がってたんやったら、コンサータでどないなってしまうんやろう。けど、そんな心配はいらんみたいでひと安心。

ADHD、発達障害の当事者として本を書くことについては、こうして書いている今も逡巡がある。自分の症例がADHDのイメージにどう影響するか、不安に思う

これは杞憂といっていいだろう。むしろ、多くの人にとってADHDについての理解が大きく深まるはずだ。ともすれば定型的なADHDばかりに目がいきがちだが、決してそうではないことがよくわかる。あぁ、そうやったんやと気づかされたことが山ほどあった。ADHDのはしくれ(?)としても嬉しい。

あー、そうかー!そんなふうに言葉にできるってすごいな。さすが作家やな

柴崎さんの長年の友人の言葉だという。この友人に100%同意したい。ちっこいことやけど、ところどころに入ってくる柴崎さんの大阪弁がむっちゃ心地よかった。ということで、ちょっと真似してみたんやけど、どないですやろ。あかんか…


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