この『1兆円を盗んだ男』は、『マネー・ボール』や『最悪の予感』などで知られるマイケル・ルイスの最新作。今回彼がテーマに選んだ人物は暗号資産取引所FTXを立ち上げ莫大な富を築き上げた後、2022年に逮捕されてしまった男サム・バンクマン=フリードだ。
マイケル・ルイスといえば複雑な題材であっても見事な一本筋の通ったストーリーに仕立て上げるノンフィクションの名手だ。しかし、本書ではさすがにそうもいかなかったらしい。最終的には年間で10億ドルもの利益をあげるようになり、20代で長者番付にも名を連ねた暗号資産の若き天才に幼少期から迫る──というプロローグながら、マイケル・ルイスの取材中にFTXは破産。
その後、サムはFTXの破産と関連した詐欺やマネーロンダリングを含む7つの罪で有罪の判決が出て、禁錮25年、110億ドル(約1兆6600億円)の資産没収が言い渡されてしまうのだ。時代の寵児として取材を開始したなのに、1、2年したら結末は犯罪者で終わったわけで、これで見事なストーリーを紡ぐのは無理がある。
とはいえ、サムは一人の人間としては興味深い人物だ。18歳の頃までに友人はほとんどおらず、たとえどれほど金を稼ぎ誰もが彼にかしずくようになっても彼は人と話すときはビデオゲームをやりながら片手間で話していた。FTXと彼のもう一つの会社アラメダ・リサーチは何十億ドルもの利益をあげているにもかかわらず秩序はなく、一度もその業務をやったことがない素人に広報などあらゆる仕事をやらせ、適当な肩書をつけ、組織図もなく、破産後調査が入っても、従業員が何人いるのかすらも誰にもわからなかったという。
世間一般的に彼は凄まじい金額を私利私欲のために用いたペテン師と捉えられているが、効果的利他主義者を自称し、自分が稼いだ金の多くを寄付し、人類全体の幸福度を増すために莫大な金を稼ごうとした人物でもあった。本書を読むとサムが(世間一般で言われているような)私利私欲目当ての極悪人だとはとても思えないが、かといって良い人間であるとも思えない。効果的利他主義がどこまで本気なのかもわからないし、変人エピソードの数々についても「馬鹿な凡人が考えた天才の真似事だ」とストレートに批判する人もいる。
いったい彼は、なんだったんだ? というマイケル・ルイスのとまどいが伝わってくるような一冊だ。しかしそうした戸惑いこそがサム・バンクマン=フリードという男とFTXをあらわしているようであり、その過程がそのまま綴られていく本書は抜群におもしろい。
サムはどういう人物なのか
まずサムがどういう人物なのかに触れておこう。一言でいえば先に書いたような変人であり、取材が開始した2021年時点ではベンチャーキャピタリストたちからは数億ドルの投資を受け、投資家たちの間からは「一兆ドル単位」の資産を持つアメリカ史上初の男になると目されていた。FTXの収益スピードは恐ろしい勢いで伸びていて、2019年には2000万ドル、翌20年には1億、2021年には10億ドルにも達している。
だが、マイケル・ルイスがサムに向かって「FTXを売って他の何かをするとしたらいくらなら満足か」と尋ねると、その最初の答えは「15000億ドル」で、無限のドルでもその使い途はあると付け加えた(本書の原題は『GOING INFINITY』)。何に無限の金を使うのか? といえば、それは彼の思想である「効果的利他主義」と関係している。
これは人類社会をよりよくする上で、効率とインパクトの最大化を目的とする考え方のことだ。より多くの金を稼ぎ、それを必要で最も効率よく運用してくれる場所に寄付をすることで人類のために貢献する。飢餓や病気のような明確な不正義を潰していくのも必要だし、隕石の衝突やAIによる世界の崩壊のリスクなど、まだみぬ脅威への対策も必要になってくる。そうすると、金はいくらあっても足りない。
サムは最初トレード会社の大手ジェーン・ストリートに就職し、そこでの給料の多くは寄付に使っていた。しかしすぐに暗号資産を扱えばもっと金を稼げると思い、効果的利他主義者たちを中心に採用して独立を決意。2017年に暗号資産トレード会社アラメダ・リサーチを設立することになる。
なぜFTXは破綻したのか
本題となるFTXはアラメダ・リサーチに続いてサムが2019年に立ち上げた会社だ。「寄付するために金を儲ける」彼の目標の額に通常のトレードでは到底追いつかないので、次なる手段として用いたのが、自分で暗号資産取引所を開設することだった。
FTXは暗号資産取引所としていくつかの特徴があり(利益の3分の1をFTXのトークンであるFTTを買い戻すために使うなど)、FTTと呼ばれるトークンがFTXに上場し一般公開されるとトークンの価値はすぐに何十倍にもなって莫大なお金を生み出すようになった。立ち上げから2年で、2021年のピーク時には100万以上のユーザーを抱え、取引量にして世界第3位の暗号資産取引所にまで上り詰める。
そんなに盛り上がっていたのになんで破産したのか? といえば結局はよくある取り付け騒ぎが原因とはいえる。2022年の11月2日にFTXの姉妹会社であるアラメダ・リサーチの財務の健全性を疑問視する報道があり、その後ライバル暗号資産大手取引所のバイナンスのCEOがFTXの資産を精算するとツイートした。当時FTXには150億ドルの顧客資金があったが、報道を受けて11月の頭から一週間で50億ドル以上が流出。膨れ上がる顧客の要求に耐えられる現金が存在せず、FTXは破産してしまう。
サムが最終的に詐欺容疑で告訴された理由はいくつかあるが、そのひとつは100万人の顧客から集めた150億ドルのうち約半数にあたる88億ドル(160円換算だと1兆4000億円以上)を最初に設立したアラメダに貸しつけていて、FTXには実態の資産があまり存在しなかった点にある。アラメダの金でサムが政治献金をしたり不動産を購入したり損失を補填したり(アラメダの)返済にまわしたりと勝手にいろいろな投資・用途に使っていたので「1兆円を盗んだ男」という邦題に繋がっているわけだ。
これ(FTXの資産がアラメダに流れていた)についてサムの言い分は、FTXは開業当初、暗号資産との関連がある企業なので米国の銀行口座を開設することができず、21年末までドル建ての入出金を受け付ける直接的な手段を持っていなかった。そこで、預かったドルは口座を持つアラメダに置き、そのまま放置されていた(そして必要に応じて使っていた)という。他にもアラメダはFTX内でトレードの流動性を高めるために例外的に無限の損失が許容されていて、それが(アラメダの)巨額の損失に繋がっていたなど、アラメダとFTXは実質的にほぼひとつの企業のように運営されていたのだ。
この事件が不可解なのは、結局取り付け騒ぎが起こる前にいくらでもFTXとアラメダは関係を精算し破綻を免れていたはずという点だ。21年末にはFTXも米国で口座を開設できているので、その時点でのアラメダの信用があれば、200億ドルは暗号資産金融機関からのローンを使えたといわれている。早期にそうした手を打てていたなら、アラメダの破綻にFTXを道連れにせずに済んだはずなのだ。
おわりに
本書を読んでみえてくるサムとFTXの実態は、とんでもない金額を扱いながらも細かいことを誰も把握していなかったせいで破綻した、というしょうもない姿である。会社の資産がどこにどれだけあるのかも把握していないから、破産申請後もその全貌を把握するためにはかなりの時間がかかったほどなのだ。
そんなしょうもない人々であっても、彼らは破綻する数週間前に、22年には3億ドル、23年には10億ドルを寄付する壮大な夢を立てて、現実にする一歩手前までいっていた。どこに寄付を行うのが良いのか、その選定をどうやるのが最も効率的なのかの検証も行っていた。しかし、それは実施できなかったのである。
夢のあまりの壮大さとしょーもなさからくる失墜、その激しい落差を堪能できる一冊である。