幼児教育からリハビリまで – 『ピアニストの脳を科学する』

2012年2月8日 印刷向け表示
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ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム

作者:古屋晋一
出版社:春秋社
発売日:2012-01-23
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一流アスリートのパフォーマンスかと見紛うばかりのピアノ超絶技巧。あるピアニストは、最速度の演奏でリズムの正確さを保ちながら1秒間に平均で10.5回打鍵するという。またピアノを毎日4時間弾いたとすると、その手は1年間で490キロメートルほどの距離を移動する。東京と大阪を「手で」移動し、年間10回以上フルマラソンに出場しているようなものだ。

本書は、ピアニストの脳と体の神秘に脳科学・身体運動学の視点から迫る。その驚くべきメカニズムの一部を、少しだけのぞいてみよう。

指をすばやく動かすと、脳にはどのような変化が起こるのか? 指の筋肉に「動け」という指令を送る神経細胞は、頭の頂点より少し前のあたりの脳部位(運動野)に集まっている。複雑な指の運動をしているときの運動野の神経細胞を調べてみると、プロのピアニストと音楽家でない人とでは、同じ速さで同じ指の動きをしているにもかかわらず、活動している神経細胞の数はピアニストのほうが音楽家でない人よりも「少ない」ということが分かった。

つまり、ピアニストの脳は、たくさん働かなくても複雑な指の動きが出来るように洗練されているのだ。一般の人には大変と感じられる動きも、それほどたくさんの神経細胞を働かせなくても可能にこなせる「省エネ脳」なのだ。

脳の形態に関して言うならば、ピアニストとピアノ初心者で比較した場合、運動の学習や、力やタイミングの調節に関わっている脳部位(小脳)の体積は、ピアニストのほうが5%も大きい。小脳には一般に約1000億個の神経細胞があると言われていることから、ピアニストは音楽家でない人よりも、単純に計算して小脳の細胞が50億個近く多いことになる。

ここで面白い実験をしてみよう。心理学の分野では有名な「ストループ課題」という、色のついた文字を読ませるテストだ。こちらの絵をご覧いただくと、目がチカチカしないだろうか?

たとえば「赤」という文字が赤色のインクで書かれているときにはスラスラ読めるが、青色のインクで「赤」と書かれていると、色につられてしまうのを脳が押さえようと働く。それが体験していただいた違和感の原因である。

ピアニストが複雑な譜面を瞬時に読み取って弾きこなしてしまう秘密もここにある。ピアニストには長年の訓練によって音符を指の動きに自動的に変換する脳の回路が出来上がっており、楽譜を見ているだけで音符に対応した指を自動的にイメージできるようになっている。ちょうど我々が「赤」という文字を見ると赤色を自動的に連想するようなものだ。

しかし、わざと定石から外れる運指数字を記した譜面をピアニストに渡すと、曲の難易度がぐっと高まったように感じられるという。さしずめ「音楽のストループ課題」といったところだろう。

やはりピアニストの脳は長年の練習によって独自の変化を遂げているようだ。他方、音楽の教育や訓練はピアニストのみならず、一般の人が行っても言語を処理する脳機能などを向上させることが分かってきた。

別の実験では、6歳児を3つのグループに分け、それぞれピアノ、声楽、演劇のレッスンを1年間受けさせた。すると、レッスンを受けなかった子供や演劇のレッスンを受けた子どもに比べて、ピアノと声楽のレッスンを受けた子供たちのほうがIQテストの成績の向上が著しかったという。音楽教育のメカニズム解明にはさらなる研究が必要だが、ピアノや歌のレッスンが子供の知能の発達に貢献しうるとは夢のある話ではないか。

(ちなみに、演劇のレッスンを受けていた子供たちは「他人との強調性が特に向上する」という結果が出たらしい。)

「モーツァルトを聴くと頭が良くなる」というのもあながちウソではない。音楽によって脳の覚醒度合いが上がり、IQテストの成績が一時的に向上するという実験結果も報告されている。

(ただし、同様の現象はシューベルトの音楽や詩の朗読を聞かせるだけでも起こることが分かったとか。)

音楽を聴いたり演奏したりすることで得られる脳や身体への変化・効果を、脳のリハビリテーションに役立てようという動きも近年高まっている。

脳卒中の患者さんに、ピアノの鍵盤を指で押さえてもらう、ドラムを叩いてもらうというリハビリを3週間後続けると、単純に身体を動かすだけのリハビリに比べ、指や手をより素早く正確に動かせるようになるなど、運動機能に顕著な回復が見られたという。音楽を聴いたり弾いたりすることで、脳に報酬が与えられ、脳の仕組みが変やしやすくなったことが一つの理由として考えられている。

他にもパーキンソン病の患者さんの歩行機能回復に歌を応用する、耳鳴りや空間無視といった疾患がお気に入り音楽を聴取することで改善されるといった研究も報告されている。

音楽には、まだまだたくさんの秘められた力が眠っている。練習に疲れたピアニストの気分転換のみならず、脳科学モノのサイエンス好きの方、幼児・成人教育や医療介護にたずさわる方まで、本書を手に取りそれぞれ興味の赴くままに楽しく読んでいただきたい。

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