『世界はひとつの教室』技術、教育、そして世界は動く

2013年6月18日 印刷向け表示
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世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

作者:サルマン・カーン
出版社:ダイヤモンド社
発売日:2013-05-24
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世界中の人々に無料で質の高い教育を。そんな理想を掲げたNPOが存在する。その名はカーンアカデミー。グーグルやビル・ゲイツなどから支援を受け、2012年時点で利用者数は月間6000万人にも達している。You Tubeで一コマ10分ほどの講義を公開し、無料で行える練習問題、学校の先生などが生徒の進捗具合を確認できるフィードバックソフトなど様々な機能がすべて無料で提供されている。好きなときに好きな場所で、自分が納得いくまで勉強でき、そして何より自分から問題を解決しようという、能動的な教育方法が生まれつつあるのだ。そしてそれはインターネットというシステムを通じて急速に世界に拡散している。本書はその仕掛け人サルマン・カーンの著作である。

 

カーンアカデミーの創設者、サルマン・カーンは、元々は教育者ではない。ではなぜ門外漢の彼が、革新的な教育システム生み出すことになったのであろう。それは、12歳のいとこナディアが、数学の「単位換算」で躓いてしまったからだ。

 

アメリカではある時点で生徒たちを能力別クラスへと生徒を振り分けていく。ナディアは本来、非常に頭の良い子で、カーンが見ていても数学的なセンスにあふれていた。彼女の未来には無限の可能性が広がっている。そのはずだった。しかし、ナディアはなぜか「単位換算」という問題で躓いた。もっと難しい課題を解くこともできるのにだ。たった一度の躓きで、たった一度のテストの不合格で、彼女がより高い教育を受けるチャンスが閉じられようとしていた。

 

ナディアがなぜ躓いたのかはわからない。理由はともあれ、今の教育しシステムでは先生が一方的に講義し、個々人の理解度に関係なく、カリキュラムに従い全ては進行していく。そこからこぼれ落ちれば、よほどのことがない限り、生涯にわたり落ちこぼれとしての烙印が子供の達の未来を呪縛し続ける。そして生徒たちには劣等感という、人間の心の深部にまで根を下ろす毒草の種が蒔かれるのだ。

 

どのような勉強方法が向くのかも、理解するスピードも人それぞれだ。カーンはたとえ勉強の進行具合が遅い生徒でも、その子が能力的に劣っているとは決して考えない。彼のアカデミーでは画一性よりも個人のペースに合わせ、能動的に学び、基礎を固め、自ら考え、独創性を発揮する教育に重点が置かれている。このことはカーンの教育を語るうえで大変重要な点だ。

 

現代の教育システムの基礎は18世紀プロイセンにおいて生まれた。工業社会の勃興と共にプロイセンは大勢の労働者を必要としていた。そこで、国中の子供たちを学校に送り込み、公金で教育するというシステムが生まれる。これはある意味で画期的なシステムだ。今まで教育を受けることもままならなかった人々に、知識と富へのチャンスを与えた。しかし、それは独創性よりも従順さを、個人の知識の底上げよりも、労働者に必要な知識を与えるための教育だ。そして何より国家が必要とする人材を中央集権的な方法で量産するシステムなのだ。

 

アーネスト・ゲルナーは産業社会の勃興とナショナリズム、国民国家の関係をその著作、『民族とナショナリズム』の中で指摘している。産業社会とそれにともなう教育が国民国家やナショナリズムの形成に大きな役割を果たした。だが、『メイカーズ』の著者クリス・アンダーソンによれば産業構造は旧来の産業モデルから大きく変容しつつあるという。情報技術と3Dプリンターなど、新たな技術の組み合わせにより、第三の産業革命が始まっているというのだ。

 

この産業社会の変化は旧来の国民国家モデルと大企業モデルに富をもたらさないシステムだ。佐々木俊尚著『レイヤー化する世界』では「ウチとソト」という概念を使いこのことを説明している。世界を内と外に分け、外から奪った利益を内に分配するのが国民国家と大量生産方式の大企業システムだと説く。しかし新たな産業革命はこのシステムを継承していない。

 

このため、先進諸国で旧来の受動的な教育で従順さを叩き込まれ、農業社会よりは洗練された教育を受けていけてはいるものの、その知性を武器として使えるまでには達していない多くの人々が大企業にしがみつきながら、次第に零落しつつある。第三の産業革命は最終的には現代の国民国家モデルやナショナリズムに大きな変容を強いることになるであろう。一方で過渡的現象かもしれないが、今現在では急速に生まれつつある格差の中で、逆に旧来型のナショナリズムが再び勃興し始めている。高度な教育を受けた持たざる者たちのルサンチマンと疎外感は、時に強烈なナショナリズムを形成する。だが、旧来のモデルに固執したとしても、かつての富を取り戻すことはできない。

 

このような状況が先進諸国に蔓延する、閉塞感や失望感の正体であるのなら、ここにカーンの教育システムがパズルのピースのごとくぴたりとはまる。プロイセンモデルが求める、受動的態度、従順さ、非独創的な知性は新た産業社会には通用しない可能性が高い。新たな社会では、個々人が能動的に学び、しっかりとした基礎を習得し、自ら考え、独創性を発揮することが求められている。

 

まさに、いまカーンが推し進めようとしている教育とは、次の社会構造にあった人々を育成し、多くの子供たちに、自らの意志で学んだ本物の知性という真の武器を与えることに他ならない。そう考えると彼の熱い使命感の源泉が見えてくる。そしてこれほど、時代にとって重要な位置を占めるプレイヤーがまだ30代の悪戯小僧のような笑顔を湛えた男だということに、驚きと憧憬の念を込めながら本書を読み終えた。まだまだ語りつくせないのだが文字数の限界もある。ここらで筆を収めることにしよう。

 

・カーンアカデミーJpanはこちら

 

・YouTubeにアップされたカーンアカデミーの講義ビデオ(日本語版)はこちら

 

 

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民族とナショナリズム

作者:アーネスト ゲルナー
出版社:岩波書店
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MAKERS―21世紀の産業革命が始まる

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レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)

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内藤 順による本書のレビューはこちら

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出版社:中央公論新社
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