最高裁中枢を知る元エリート裁判官はなぜ司法に〝絶望〟したのか? ー 『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー第2弾

2014年2月18日 印刷向け表示
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--ただ、正直、裁判官の人事は、一般の人々にとっては「コップの中の嵐」にすぎないようにも思えるのです。「コップの中の嵐」では、私たちの受ける判決内容にさしたる変化は生じないのではないでしょうか? こうした考え方は甘いでしょうか?

瀬木:そのように裁判制度の問題を小さく考えることが、結局、本書で論じたような種々さまざまな問題を生じさせる大本、少なくともその一つになっているということを考えていただきたいのです。

サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最初のほうで、王子さまが「バオバブの木」についてこんなふうに語りますね。

「大きくならないうちに抜いておかないと、小さな星なら破裂させてしまうよ。最初はバラとそっくりだから、よく気をつけてね」

テグジュペリがここでファシズムを寓意していることは明らかだと思いますが、すぐれた表現は意図された寓意を超えてしまうというのが、文学のすごいところです。

僕も、小さな王子と全く同じことを言いたいですね。

つまり、権力というものは、ほっておけば必ず腐敗するということです。その芽は、常に、小さなところから始まります。

ちなみに、アメリカでは、州裁判官の全員に関する弁護士たちの事細かなアンケート調査の結果が一般の新聞に掲載されます。これは市民が常に監視しておかなければならない情報だということが、共通の理解事項になっているのです。

--第3章の「見えない檻」のレトリックはきわめて秀逸で、裁判所のみならず、日本のさまざまな「部分社会」に共通する病理であるように思われます。本書は、単に司法の荒廃、腐敗を告発した問題作という以上の、日本社会の病理とその構造に深く迫った書物ではないかという印象をもちました。この表現は、どのようにして思い付かれたのでしょうか?

瀬木:自分自身の体験からですね。定められた領域に安住している限りその檻は見えないが、いったん自分の眼で見、自分の頭で考えるようになれば、たちまち、見えなかった檻にぶつかることになる。

旧ソ連の全体主義的共産主義や、さらにさかのぼればアウシュヴィッツの恐怖について考察した多くの書物から得た考察も、それを補完しています。アウシュヴィッツも、旧ソ連等の強制収容所も、その存在については取沙汰されていながら、その真実は、長い間明らかにされませんでした。これもまた、見えない「ゾーン」、「檻」だったのではないでしょうか?

--現在の司法は既に自浄能力を失っており、司法の根本的な改革のためには、弁護士等を相当期間務めた人々の中から透明性の高い形で裁判官を選出する「法曹一元制度の実現」しかないとのお考えですが、弁護士の質の劣化が叫ばれているいま、有効な手段とはなりえないのでないかとの意見もあるようです。また、法曹一元制度提言はポピュリズム的で無責任だとの意見さえ一部にはあります。いかがでしょうか?

瀬木:はい、そのような意見があることは重々承知しています。ある意味で、「やっぱり自民党でなければ」という意見と似ていますね。

一理ありますが、僕は、まず現実性の有無というところから判断して思考放棄してしまうのは、やはり適切ではないように思います。

また、司法の場合には、弁護士という受け皿があり、それは、司法の担い手たりうる、そしてそれをめざすべき集団ではないかとも考えています。

『民事訴訟の本質と諸相』では、厳しい弁護士批判をも行い、その上で、やはり法曹一元制度をめざし、その基盤作りに着手すべきではないかと書いています。本書を読んでさらに司法に興味を抱かれた読者には、そちらもお読みいただければ、司法制度、裁判と裁判制度、人々や法律家の法意識、学問のあり方と方法等に関する僕の考え方やヴィジョンの全体像がよりよく理解していただけるのではないかと思います。

これは、裁判官でも、弁護士でも、あるいは学者、ジャーナリスト、医師等ほかの専門職でも同じことなのですが、その中で本当にすぐれた部分の割合は、職種によってある程度の差はあるものの、それほど大きいわけではありません。

そして、その部分を比べるとき、裁判官については、もはや良識的、自覚的な、独立した裁判官と呼べるような人々の層はかなり薄くなってきており、また、現在の官僚機構の中では残念ながら絶対上には行けない。したがって、改革の力にはなりえないのです。僕の経験からもわかりますが、何とか孤塁を守るのが精一杯でしょう。

一方、弁護士については、上から下までの落差が大きいことはもちろんどこの国でも同じです。しかし、僕の知る限り、その中の上層部は、人権感覚にすぐれ、能力も謙虚さもある人が比較的多いと思います。ですから、弁護士の中の本当にすぐれた部分が裁判官になるなら、全体として今よりもよい裁判が行われるし、その質も落ちたりはしない、そのことは、僕は、かなり自信をもって言えます。

第6章にも記したとおり、良識派の元裁判官には、弁護士をやっている人を含め、そういう考えの人々は結構多いのですよ。つまり、元裁判官だからこそ、現在の問題の大きさがよくわかるのです。元良識派裁判官たちは、裁判所や裁判官に対する幻想をもっていませんからね。

ただ、それでは、現在の弁護士全体、弁護士会全体が以上のような状況に十分自覚的であるかといえば、答えは否かもしれません。だからこそ、『民事訴訟の本質と諸相』では、「弁護士全体、弁護士会全体が本気になって取り組めば」という留保を付しています。

--古巣の批判は、精神的にもかなりの御負担だったと思います。執筆に当たられた際の心境をお聴かせ下さいませんか?

また、これと関連しますが、今日のお話からも明らかなとおり、裁判所当局による裁判官支配、統制が徹底した今日、裁判官が個人の矜持を貫き通すのはかなり難しくなっているように思われます。瀬木さん御自身は、みずからの理想を最後まで貫き通すことがおできになりましたか?

瀬木:厳しい問いかけですね。

実務は決してきれいごとではありません。リアルに描写するなら、むしろ、泥まみれの戦場に近いでしょう。そして、そこにおいて「ささやかな正義」を実現するのも、実際には容易なことではない。最近読んだ岩明均の漫画(『雪の峠・剣の舞』〔講談社〕のあとのほうの作品)に出てきた身につまされる言葉を借りれば、結局のところ、一人の人間の力では、「城一つ、女一人」守れない、守ることは容易ではない、そういうことなのかもしれません。

僕は、裁判官として、本書でも触れたようないくつかの悔いを残す事件を除けば、まずまず適切な訴訟指揮、和解、判決を行ってきたと思いますが、しかし、「おまえは自分が司法にかけた理想を守り切れたのか?」と問われれば、胸を張って守り切ることができたと答えるほどの自信はありません。

ただ、先の作品の中に出てくる剣士にとって、竹刀が真剣と何ら変わりのない必殺の武器であったように、僕も、常に、真剣勝負の気概で、残された期間、研究、教育、また、各種の執筆に打ち込んでいきたいと思います。それが、せめてもの償いであり、自分自身に対する責任の取り方でもあるということです。

瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は春ごろ刊)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。
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