より理解を深めるためのブックガイド
以下に、本書と関連するトピックについて、より理解を深めるための参考文献を挙げながら、簡単な解説を加えてゆきたいと思う。まずは初期近代の印刷文化史そのものであるが、喜ばしいことにここ数年、新なアプローチから切り込んだ清冽な著作がこぞって邦訳されている。
たとえば本書の主人公のひとりでもあるアルド・マヌーツィオを中心とする、ルネサンス期ヴェネツィアの華麗な書物文化史に焦点を当てた本として、アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『そのとき、本が生まれた』およびラウラ・レプリ『書物の夢、印刷の旅』がある。
イタリアはもとより当時のヨーロッパ規模においても有数の印刷拠点であったヴェネツィアは、カトリック圏でありながら、その巧みな外交戦略と圧倒的な財力によって教皇庁からの知的・政治的独立を維持し、文芸共和国の発展に益する数々の名著や重要著作を世に送り出した。その知的インパクトをより深く知りたい向きは、ぜひこれらの著作を手にとってみられたい。
また手書き写本から印刷本へと時代が転換してゆくなかで、当時の知的世界に計り知れない影響を与えた一冊の本をめぐる秀抜な物語としては、スティーヴン・グリーンブラッド『1417年、その一冊がすべてを変えた』をお勧めしておこう。
コジモ・デ・メディチやエラスムス、ポッジョ・ブラッチョリーニ などなじみの名前も登場する本書をひもとくと、印刷術黎明期に、修道院に眠る古典写本を求めてヨーロッパ各地を踏破したブックハンターたちの活動が手に取るようにわかる。ペティグリーも強調しているように、人文主義者たちが黎明期の印刷術に見た夢とは、まさにこうした失われた古典の復興であったのだ。
また、彼ら人文主義者たちが古典テクストといかに向き合い、古代文化を復興させていったのかを活写した精神史研究の傑作が、アンソニー・グラフトン『テクストの擁護者たち』である。
人々の本離れが進み、人文系の学問への風当たりが強まっている昨今であればこそ、そもそもの人文学の誕生の瞬間を切り取った本書の重みは増してくるはずだ。ペティグリーによる印刷文化論とセットで読みたい一冊である。
サイエンスと印刷技術の関係について
最後に、自然科学分野と印刷の関係についても補足しておこう。ペティグリーが本書の第四部で詳しく論じているように、印刷術の発明は科学の発展に大きく寄与した。当時はラテン語が学術共通言語として流通し、郵便制度もそれなりに発達していたから、次々と出版される専門著作を通じて、ヨーロッパの各地の学者たちはかなりの程度、最新の科学知識について情報を共有できていた。
当時はまだ、植物学や動物学、鉱物学といった細かな学問分類がなされておらず、自然の諸事象を研究する学問として「博物学」とひとくくりにされていた。コンラート・ゲスナー、ウリッセ・アルドロヴァンディ、ピエール・ブロンら当時を代表する博物学者たちは、世界中から自然の珍しい標本を大量に蒐集し、分析を行ない、その結果を浩瀚なラテン語著作として次々に出版していったのである。
そこには、学術パトロネージ、宮廷文化、印刷術、蒐集文化史等々、初期近代という複雑な時代を読み解くためのさまざまな問題系が織り込まれており、まさにその点を徹底的に論じたポーラ・フィンドレン『自然の占有──ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』は、本書の格好のサイドリーダーとなってくれるだろう。
その一方で、印刷メディアのイメージ複製という点に着目するならば、博物学はまさに図像複製と情報伝達をめぐる最先端の議論が戦わされた領域として注目に値する。植物や動物の形状は、贅言をつくして言葉で長々と描写するよりも、正確なイメージを一枚提示するほうがはるかに理解がすすむ。
古代や中世には、そもそも写実的な絵画技法が発達していなかったこともあり、イメージに対する不信感がまさっていたが、初期近代には、レオナルド・ダ・ヴィンチやデューラーらの努力によって超写実的な図像の実現が可能となり、イメージへの信頼度は一挙に高まった。
自然の形姿をいかに忠実に画像として写し取るか、そしてそれをいかに印刷用図版として正確に大量複製するか。そんな博物学者たちの葛藤を見事に描いたのが、サチコ・クスカワ『自然の書物を描く──16世紀の人体解剖と薬用植物学におけるイメージ、テクスト、議論』である。
博物学および隣接する医学はまた、怪物学や奇形学、あるいは天変地異をめぐる各種の予言・予兆や、はたまたそうした疑似科学情報を売り物にするペテン師たちの活動領域とも、ゆるやかに繋がっていた。そこには当然、印刷によるメディア戦略もからんでくる。
ペティグリーも楽しげに分析している、驚異事象や怪物をめぐる当時の上を下への大騒ぎについては、ロレイン・ダストン&キャサリン・パークの名著 『驚異と自然の秩序── 1150-1750年』が、あますところなく論じてくれている。
また、あやしげな薬の調剤法や健康療法を満載した、いわゆる「秘密本」(Books of secrets)の伝統についての強烈におもしろい通史を綴ったウィリアム・イーモン『科学と自然の秘密──中世と初期近代文化における秘密本』も、必読の一冊であろう。
ぺティグリーが推進する、初期近代に出版されたすべての書物の総カタログ化プロジェクト Universal Short Title Catalogue は、かつて博物学者にして書誌学者であったコンラート・ゲスナーが『万有書誌』 Bibliotheca Universalis(1545-55年)において試みた、この世のすべての本の書誌を網羅しようとする夢想の現代版に他ならない。
ゲスナーを指してはシジフォス的な作業にいそしむ愚者よとさげすむ者もいたようだが、われらがペティグリー率いるチームの成果やどうだ。すでに1610年までの書物の全カタログ化を終え、17世紀の書物にまでその触手を伸ばしているではないか。
このプロジェクトが完成し、他のオンライン書誌データとも相互リンクが可能となったとき、また新たな印刷文化史の物語が立ち現れてくるに違いない。その時、嬉々として原稿に向かうペティグリーの姿が今から想像されてならないのだ。
※本稿は書籍に収録されている内容を一部割愛のうえ、掲載しております。