『若い読者のための第三のチンパンジー 人間という動物の進化と未来』 解説 by 長谷川 眞理子

草思社2015年12月17日 印刷向け表示
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「人間とは何かを探る」ことを教える  

ところが残念なことに、今の日本の中学、高校の教育では、人間とはどんな動物なのかを考える素材を提供する授業がほとんどありません。伝統的な国語、算数、理科、社会はあるものの、自然人類学や心理学、社会学、経済学などに関連した科目はほとんどありません。また、ヒトは生物ですが、生物の授業の中で、ヒトの進化についてはあまり深く語られていないのが現状です。一方、哲学に関連する授業はあるのですが、それと、ヒトの生物学との関連は、まったく見えてきません。

どういうわけか、今の中学、高校の生物では、メダカやクラミドモナスについては考えてみるけれど、私たち人間自身についてはあまり生物学的に考えない、ということになっているようです。私は、これは由々しきことだと考えています。

心理学や経済学は、全国の多くの大学に学部や学科があるという意味では、大学教育の大きな一部を占めています。今や多くの高校生が大学に進学するというのに、これらの学問のさわりの部分を高校で学ぶ機会はないのです。でも、現状の教育はどうでもよろしい。今教えられているどの科目ということではなく、いろいろな科目を統合する別の視点で、「人間とは何かを科学的に探る」というテーマ学習でしょうか? 本書は、そういう意味では、若い人たちに人間とは何かを考えるきっかけを与える教材として、とてもよいものであると思います。

人間は、生物界の中では本当にユニークな存在であり、地球生態系に大規模な影響を与える重要な存在です。なぜ人間はそんなことができたのか、それを可能にした人間の性質はどのようにして進化してきたのか、本書は、それについて一つ一つ検討していきます。しかし、一番重要なのは過去の話ではなく、その過去の経緯を知り、現状を知ることによって、それらの事実が人間という生物の将来をどう導いていくか、人間は将来どうなるか、ということの考察でしょう。それは、本書でも試みられていますが、次世代を担うみなさん一人一人が考えていくべきことなのです。

これからどうしようかと思えば、今がどうなっているのか、過去はどうなっていたのかを知らねばなりません。その探求は多くの努力を要求するものですが、あくまでも大事なのは、それらの知識を駆使して未来を創ることです。本書が、若い人たちのためにとくに造られた理由はそこにあるのです。

ヒトにもっとも近縁な生物、チンパンジー  

私は、大学院の博士課程のときに、東アフリカのタンザニアで野生のチンパンジーの行動と生態の研究をしました。それは私の博士論文のための研究だったのですが、そのための資金は外務省の外郭団体である国際協力事業団(現在は国際協力機構)から出ており、私の仕事は、タンザニア西部のタンガニーカ湖畔に、野生チンパンジーのための国立公園を設立することでした。日本が大きな無償協力をして、数年がかりで、歩いてめぐる国立公園を造るための基礎データを提供することが仕事だったのです。

私は、先にお話しした自然人類学を専門とする、東京大学理学部生物学科の人類学教室に進学しました。私と一緒にタンザニアで調査し、同じく博士論文のための調査をした夫の長谷川寿一は、東京大学文学部心理学科の大学院生でした。自然人類学と心理学、分野は異なりますが、人間とは何かについて探究するという点では、同じ土俵の学問です。同じ目標を持ちながら、学問の方法も問題設定も異なる私たちは、互いに相手にないものを補完しながら、野生チンパンジーの調査という困難な仕事を行っていきました。

アフリカのタンザニアという国での調査は、決して楽なものではありませんでした。電気もガスも水道もなし。途中から小さな発電機で電球二個ぐらいはつけることができましたが、その発電機も石油がなければ動きません。ガスはないので、薪を燃やすか、登山者用のガスコンロを使うか。でも、ガスコンロも燃料がなくなればおしまいです。その意味では薪が頼り。水道はないので、毎日、バケツに二杯の水で料理と洗面をこなします。お風呂と洗濯は、広大なタンガニーカ湖ですます、という毎日でした。

チンパンジーは、私たちのキャンプにやってくることもありましたが、彼ら自身のなわばりの中を、毎日、季節の食べ物を求めて移動しています。彼らの一人一人の顔を覚えて個体識別し、彼らを追いかけ、その行動や社会関係を記述し、毎晩、その記録をまとめました。彼らが何日も見つからないこともあり、いったい今は何をしているのだろうと案じたこともありました。彼らがすぐそばでくつろいでいて、滅多に見られない行動を垣間見せてくれたこともありました。そうこうしているうちに、彼らの生活がだんだんに見えてきます。夫の長谷川寿一はおもに雄を追いかけ、私はおもに雌を追いかけ、それぞれの研究テーマを探究していきました。

チンパンジーは、私たちヒトともっとも近縁な動物で、私たちの共通祖先からこの二つが分かれたのはおよそ700万年前と言われています。この地球上に何千万種の生物がいようとも、私たちにもっとも近縁なのは彼らなのです。だからこそ、私たち人類学者や心理学者たちにとってチンパンジーを研究する価値があるのです。こんな「特権的な」動物であるチンパンジーを研究できるというのは、研究者にとっては素晴らしい「特権的な」機会でした。

しかし、野生のチンパンジーの行動と生態を調査していた2年半にわたって、私たちには、チンパンジーに対する親近感よりも違和感の方がどんどん増えていきました。それ以前に野生のチンパンジーの研究をしていた有名な研究者は何人もいます。彼らはみな、チンパンジーがいかに私たちヒトに近いかを強調していました。チンパンジーの母親がどんなに手厚く赤ん坊の世話をするか、おとなの雄たちがどれほど協力しあって獲物をしとめるか、などなど。でも、それはそうであるとしても、私たちには、「チンパンジーはまったくヒトとは異なる」という感じの方がずっと強烈でした。

その違和感が何だったのか、それを深く探究することは、結局はチンパンジーの研究をすることではなくて、ヒトとはどんな動物なのかを研究することだったのです。当時の私たちは、どのようにしてチンパンジー的な生き物からヒトが進化したのかをつなぐため、ヒトとチンパンジーとの進化的道筋をつなぐために、先達の研究と同じく、ヒトとチンパンジーの共通性を強調することに一生懸命になっていました。心の底ではこれは違うという違和感を抱きながらも、そのように研究の枠組みを置くようになっていたのです。

そうすることをやめて、この違和感を意識して取り出し、ヒトとチンパンジーは連続しているが似たような種ではない、ヒトはチンパンジーとはまったく異なる性質をどうにかして進化させたからヒトになった、そのことを探究しよう、と考えるようになるには、私たちにとっても長い時間がかかりました。そうして現代に至る中で、ジャレド・ダイアモンドという人物の著作に出合ったのは、とても幸運であったと思います。

若い読者のための第三のチンパンジー: 人間という動物の進化と未来
作者:ジャレド ダイアモンド 翻訳:秋山 勝
出版社:草思社
発売日:2015-12-12
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