『奇妙な孤島の物語 私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』訳者あとがき

2016年3月1日 印刷向け表示
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奇妙な孤島の物語: 私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島

作者:ユーディット・シャランスキー 翻訳:鈴木 仁子
出版社:河出書房新社
発売日:2016-02-29
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文学の棚なのか、紀行エッセイの棚なのか、地図の棚なのか、書店が置き場に悩むような本である。できるならどこにも置いてほしい。けれど孤島のロマンティシズムにあふれたエッセイ、きれいな地図のついた秘境ガイドだと思って手にとると、ちょっと拍子抜けするかもしれない。未知の土地への憧れをかきたてるような旅の本とはいくぶん趣向がちがうのだ。原著タイトルは、『孤島の地図──私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』(Atlas der abgelegenen Inseln: Fünfzig Inseln, auf denen ich nie war und niemals sein werde)という。

著者ユーディット・シャランスキーは作家にしてブックデザイナー。本書の文章はもちろん、地図の製作も、そしてドイツ語版は装幀も、すべて著者の手になる。1​9​8​0年、旧東ドイツのバルト海に面した港町グライフスヴァルトに生まれた。地図を見るとドイツのいちばん北東のはずれ、ポーランド国境も近い海辺の町である。ベルリンの壁が壊れた1​9​8​9年秋には、著者は9歳になったところだった。

「東ドイツ全体がひとつの<島>でした」となにかのインタビューで語っていたことがあるが、遮断されていた西側世界へはもちろん、故郷の外へすら出ることもない、目の前に果てしなく広がる海だけがあった幼年時代を送った。行ったことも、行けるはずもないはるかな場所への想いが、自宅の居間にひろげた地図の上ではぐくまれた。

『ロビンソン・クルーソー』(1​7​1​9年)や『宝島』(1​8​8​3年)をはじめとして、あるいは『ユートピア』(1​5​1​6年)でも『テンペスト』(1​6​1​1年)でも『ガリバー旅行記』(1​7​2​6年)でも、文学はくり返し<ここではないどこか>を島のなかに描いてきた。離島や無人島を舞台にした小説や映画やマンガは、古今東西、数知れない。手つかずの原初の自然、生命をかけたサバイバルの体験。既存の社会から隔絶した理想国家、あるいはその逆のディストピア。孤島は日常世界の限定や桎梏をのがれた別世界としてイメージされる。たしかに小説だけでなく、現実にも19世紀から20世紀にかけて、西洋文明に嫌気がさした人々がつぎつぎと〈未開の地〉に移り住んだ。野生の生命力を求めて画家ゴーギャンがタヒチに最初に移住したのは19世紀の終わり、1​8​9​1年のこと。

著者を孤島探索に向かわせたのも、そんな憧憬だった。原著の文庫版はしがき(本書未収録)のなかで、著者はベルリン州立図書館(22番、ロビンソン・クルーソー島に出てくる図書館だ)の地図閲覧室で「人の高さほどもある地球儀のまわりを廻り、米粒ほどの大きさの島々の名を目にした時」に、大洋にぽつんと浮かぶ僻遠の島のありようにひどく心をそそられた、と書いている。だが世界の島々がほぼすべて発見され、探検されつくしたいま、彼女にできるのは「せいぜい図書館にこもって、自分なりの発見をすることぐらい」だった。「貴重な地図やはるかな場所の調査文献のなかから、自分の島を見つけたい、という願望が私を駆り立てていた。植民地主義的な渇えではなく、憧れの心から、その島を所有したい、と思った」という。

しかし、理想郷をもとめてはじまったこの探索は意外な方向へ展開する。彼女が見つけた島々はロマンチックな別天地どころか、「うんざりするほど不毛な、豊かにあるのはそこで起こった恐ろしい事件だけというような場所」だったのだ。だがそれらの<実話>にこそ、人間の面妖さとでもいうしかないものが凝縮されていた。周辺世界から隔絶した場所に置かれた時、人間のなかでなにかが起こる。奇習、奇病、暴力、殺人、自然破壊……閉ざされた空間でしか起こりえない奇妙な人間劇がくり広げられる。恐ろしいけれども、まことに興味ぶかい話の数々が。

すべてが<実話>だとはいえ、著者は「ここにおさめた内容の真偽を問うのは、混乱のもとである」として、同はしがきにつぎのように書いている。「本書に記載されたすべてのテクストは、調査にもとづいている。ディテールに至るまで一切の出所をたどることができる。けれどほんとうにそのとおりに起こったかとなると、これは、島がつねに現実の地理的座標を超えた、人心を投影する場所であるというそのことからしても、確認できないのだ。心を投影した場所は、学術的手法ではなく、文学的な手段によってしか捉えることができない」、と。孤島はやはり人間にとってそれだけですでに非日常的な、幻想の空間なのである。

現実には不毛で荒涼としていて人間を寄せつけなかろうが、それでも<ここではないどこか>をもとめる人の想いは、そのどこかになんとかして至りつき、わが手に所有しようとする企図をくり返す。あちこちから読みとれる、大航海時代このかたの人間の発見と征服への熱意の凄まじさには驚かされた。一見中立的な科学的調査や探索も、その営みに抜きがたく組み込まれていることは言うまでもない。ちなみに本書そのものが、著者の遠い世界への想いを駆動力として調査され、まとめられたものであって、居間にいながらにして世界を征服する──と言って悪ければ、さきほどの著者のことばで「憧れの心から所有する」──こころみだろう。

すべては著者のまえがきを読んでいただければ、訳者などが屋上屋を架すまでもないことだけれど、本書における人間中心主義や西洋中心主義や植民地主義への批判的なまなざしは、地図の造形にもはっきり表れていると思う。人間のあくなき探究欲の対象となり、発見され、命名され、所有され、調査されている孤島の姿は、平面的でなく、明らかに身体性をまとって、均質な青の中にそのどこか幻想的な姿を横たえている(ちなみにドイツ語で島はdie Insel、女性名詞だ、と余計なことも書きたくなる……)。白とグレーで美しく表されたその声なきモノクロームの島影に、オレンジ色の領域や線が蛍光を発しているかのように浮かびあがる。人間が手をつけた場所だ。

そしてそこに、領有者の言語で地理名称が記入されている。「征服の行為は、地図において反復される」のだ。だから著者シャランスキーは、あえて地図に出てくる言語を統一していない。たとえばアメリカ領セント・ジョージ島(42)にある湾はZapadni Bayと、フランス領ポセシオン島(15)にある湾はBaie du Marinと、そして日本領硫黄島(41)にある湾はHiraiwa-wanといったぐあいに表記される。どれもがすべて「湾」であることがわかるように、著者はわざわざ巻末に地形用語の訳語集をつけている。

だからこのお手製の地図を邦訳するにあたって、私たちも地図上の地名を日本語にしなかった。日本の読者のために日本語に音訳するほうが地図として取っつきやすいし、親切ではないかという意見もあるだろう。でもこれはただの地図ではなく、著者が細心の注意を払って作製した<世界劇場としての地図>である。名称にいかに歴史と政治性が、あるいは人間の夢想や欲望が宿っていることか。

たとえばいまぱらりとめくってみた32番、バナバ島(キリバス共和国)の地名。Tabwe-wa, Tabiang, Ooma, Lilian Point, Sydney Point, Home Bayと、1つの島に英語の名前とミクロネシアの言語らしい名前が混在している。イギリス船が島を〈発見〉したのが1​8​0​4年のことだ。

あるいは2番、はるか北極海はベア島の岬(Kapp)の名は、Kapp Elisabeth, Kapp Hanna, Kapp Ruth, Kapp Harryと、ほとんどがファーストネーム(女性も多い)にちなむ。どんな人がどんな想いでこんな名をつけたのか。島の歴史と人の想いを静かに、おのずと語っている地名。それをカタカナと漢字で表してしまうとかえって理解しがたく、多くが失われると思われた。

地図の名称を何語だろう、なぜ英語らしいものとスペイン語らしいものが混じっているのだろう、この人名はなに? この名前はあんまりな……などと思いながらじっくり眺めているうちに気づくことや想像(妄想)できることは山ほどあり、読者は各人各様にかならず発見と想像の喜びを味わうことと思う。だからあえて<日本語による征服>はしていない。そのかわり、本文に出てくる地名については、日本語を地図の中に併記して、位置を確認できるようにした。

見開きの両頁のすみずみにまで情報がひそんでいる。地図をしげしげと眺めるのにも似て、島名の上下にある小さな情報や、左頁のオレンジの地球儀に目を凝らしてはじめて内容が深く味わえるようになっていて、精緻な美しさを持った島の図は言わずもがな、緊密な空気がレイアウト全体に漂っている。文章は簡潔で、ミニマルと言えるほどに言葉が刈り込まれ、ちょっと素っ気ないほど。

なお原文はすべて現在形で書かれており、過去の事象を語る時も現在形が貫かれているが、日本語にするとどうしても読みやすさが削がれたため、邦訳ではやむなく過去形をとった。日本の読者のために多少とも情報を補ってもある。それでも落としどころのある物語、というのとはだいぶん違う。叙述の淡々とした感じ、謎を謎のままに、余韻を残してぽんと突き放してしまう感じが、荒涼とした海の中に浮かぶ島の孤影と呼応しているように思うのは、感傷的すぎるだろうか。

作家とブックデザイナー、どちらが本職というのでもない。シャランスキーは統一後のドイツでベルリン自由大学にて美術史を、ポツダム単科大学にてコミュニケーション・デザインを専攻した。その後2​0​0​7年から2​0​0​9年までポツダム単科大学でタイポグラフィー基礎論の教鞭を執る。

2​0​0​6年、ドイツの古い書体フラクトゥア(いわゆる「ひげ文字」「亀の子文字」)の総覧『フラクトゥア、わが愛』(Fraktur mon Amour)を上梓。6​0​0頁を超え、3​3​3種のフラクトゥア体を集成したという書体への分厚いオマージュ本だ。作家としてのデビューはその2年後、『青はおまえに似合わない──船乗り小説』(Blau steht dir nicht: Matrosenroman)。はるかな世界に想いを馳せ、船乗りにあこがれる少女(少年でなく)の東ドイツの海辺での幼年時代と、水兵服のモチーフによって繫がる歴史上の人物(映画監督エイゼンシュテインやロマノフ朝最後の皇太子アレクセイ、写真家のカーアンや作家ケッペンなど)のエピソードなどが3人称と1人称、過去形と現在形を交錯させて語られ、しかも全編にさまざまな写真が散りばめられた小説だ。

つづいて2​0​0​9年に本書を出版、その年の「もっとも美しいドイツの本」賞、2​0​1​0年のドイツデザイン賞銀賞を受賞した。2​0​1​1年には小説第二作『麒麟の首』(Der Hals der Giraffe: Bildungsroman)がベストセラーに。旧東独地域のはずれ、過疎化が進む町に住む中年の「生物」担当女性教師の、さびれていく地域に重なるような荒涼とした心の裡がしだいに明らかになっていく話で、ダーウィンの進化論がからんでくる。この小説にも生物にかかわるイラストがあちこちに挟まっていた。

むろん表紙絵を含めてすべて本人の装幀で、この書物も翌年の「もっとも美しいドイツの本」賞を受賞。3作目が待たれるところだが、2​0​1​3年からはある出版社で「博物学」シリーズを編集、カラス、ロバ、ニシン、昆虫、荒野……といったテーマで、文芸とグラフィックを融合させた美しい書物をつくりつづけている。

このたびの邦訳版は原著よりも少し小ぶりになり、そして作者がたぶん夢にも思わなかったであろう縦書きレイアウトになって生まれ変わった。なお島名や地名は『小学館世界大地図』などに記載された表記を原則とした(確認しきれなかったものもある)が、1つめの島の名「孤独」でもわかるとおり、学術上の名称を優先させてはいない。「心を投影した場所は、学術的手法ではなく、文学的な手段によってしか捉えることができない」、とさきほどの言葉を最後にもう一度引用したくなった。

鈴木 仁子 

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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