『本当の夜をさがして』夜を喪う巻末エッセイ by 角幡 唯介

2016年4月19日 印刷向け表示
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天体は行き先を示す目印となるだけではなく、私がこの極夜世界のどこに位置しているのかという旅に不可欠な情報も提供してくれた。私は意図的にGPSを持っていかなかったので、自分の現在位置を知るためには天体を六分儀で観測して高度を割り出し、観測データをもとにテントのなかで複雑な計算をこなさなければならなかった。天体の光という自然物によって行き先を示され、そして自分の地球上における現在位置の手がかりもまた星によって手渡される。凍てつく闇の底で天測をするということは、世界を構成している万物の源である自然に対して自分が関与する領域を広めることに他ならなかった。

このような自然にたいして働きかける具体的な作業を通じて旅を構築することで、私は自分と天体とのあいだにこれまで感じたことのない強固な関係性が生じているのを発見した。六分儀をかざすことで私は星に働きかけ、そして星からの返答を読み取ることで、曖昧だった自分自身の存在を地理的な位置という具体的なかたちで物理的空間の中に明確に確定させることができる。星とのあいだに紡がれた関係により私は生存することができているのであり、自分の生の明瞭な輪郭線を感じとることができた。

星と同様に月にもまた私は生かされていた。しかも月は星よりも、抜き差しならないかたちで私の命運を握っていた。月は星と違って毎日必ず姿を現すわけではない。地球の地軸が傾いている関係上、北極圏のような高緯度地方では、月の位置によっては地平線の上に姿を現さない日も少なくない。したがって月の出ない夜こそ、極夜の暗闇はその真価を発揮する。

月の出ない夜は行動するのが著しく困難だ。私は行動中はあまりヘッドランプを使わずに歩いていた。ヘッドランプをつけると、明りで照らされた範囲以外は逆に目が効かなくなり、狭い範囲しか見えず、全体的な地形の雰囲気がわからなくなるからだ。人工的な明りがなくても、目が慣れてくれば何となく周囲の丘や海岸線の位置がぼんやりとわかってくるものだ。しかし月がなければそれも限界があり、肝心の足元の氷や雪の状態がよく見えなくなる。

ある晩、乱氷帯を歩いていた私は、足元の雪がそれまでの堅い雪面から突如、ふんわりとした柔らかい新雪に変わったのを感じた。そのまま歩き、5メートルほどで新雪帯を突っ切ったが、少し不思議だったので、振り向いてその柔らかい雪面をストックで突いて確かめてみた。その瞬間、ゾッとした。その新雪帯は氷が割れて海水が露出したところに雪が積もっていただけだったのだ。月のない暗い夜だったので、雪が積もっただけの海水の上をそれとは知らずに歩いてきてしまっていたのである。

月が出ない真の暗闇につつまれた夜はシンプルな恐怖と不安に支配される夜でもある。極夜の暗い世界で吹く風は、昼間の太陽の光がある明るい世界で吹く風よりもはるかに風力が強く感じられて、単純に恐ろしい。闇のなかを歩いていて次第に風が強まってくると、まだ歩ける風力であるとわかっていても、テントが立てられなくなるのではないかという不安が勝って、どうしても早めに幕営することが多くなる。そしてテントのなかに入っても、風でバタバタと揺れるテントの生地や地吹雪の不気味な轟きが実際の音以上に大きく聞こえて、それが自然のなかに一人でいることから生じる孤独感や不安感を増幅させた。

強風のなかから時折聞こえてくるガサガサ……ガサガサガサ……という雪の摩擦音が、鼓膜を通過するときに変調をきたし、脳内の感知部位に達するときには熊の足音にしか聞こえなくなるのである。そして私は疑念に耐えられなくなり、銃を構えてテントの外に飛び出す。しかしそこにあるのは熊の足跡ではなく、強風吹きすさぶ荒涼とした氷原がどこまでもつづく極夜の闇である。

月の出ない期間、私はとにかく一刻も早く月が戻ってきてくれることを望んでいた。そして満月が強大な明りをともなって地平線から力強く立ち上り、どこまでも長く伸びる私自身の人影を氷の上に作りだした瞬間、私は狂喜した。極夜で旅をするには星や月に頼るほかなかったのだ。

いつ頃から人間は闇を畏れるということをしなくなったのだろう。現代人にとって太陽、月、星といった天体はすでに本質的な存在ではなく、私たちの日常は人工灯やGPSという疑似的な太陽、月、星を周囲に設営、運行させることにより成立している。私たちは休日の天気や、皆既日食や数十年に一度の流星群を見る時以外に太陽や天体にたいしてさほど関心をいだかなくなった。現代の女が夜の闇にたいしてどのような恐怖を抱くかは男である私にはわからないが、少なくとも私のような成年男子が闇が怖いので夜は出歩かないということは考えにくい時代になっているし、仮に大人の男がそのようなことを言い出したら逆に精神の健全性を疑われるだろう。

だが、それがはたして元来自然物である人間のあり方として健全なものなのだろうか、とも思う。初めての極夜の旅から戻って以来、私はそんな問題意識を持つようになった。古代人が世界的に太陽を神と崇め祭祀を執りおこなってきたことからも分かるように、太陽や月や闇は人間にもっとも身近な自然の対象だった。

人間は昔から太陽の光を崇め、それに生かされていると感じ、闇を畏れて回避しようとしてきた。それが自然物である人間の自然に対する然るべき距離感であり、そうやって何万年も暮らしてきたのである。しかし近代以降、人間は人工灯で闇を覆い隠すことで、最も身近な自然を撲滅させた。夜という自然を撲滅させた結果、闇を畏れるという人間として極めて適切な感情も私たちは喪いつつある。

外部世界のあらゆる事象は、私たち人間自身が内部で直観し、主観的に知覚することで初めてその存在に形式が与えられる。これは西欧近代哲学に現れたひとつの考え方かもしれないが、しかし自分の経験に照らして、私も実感をもってそんなことを感じることがある。自分の精神と身体が直観、知覚できないところに存在する「純粋客観」などこの世に存在するかどうか極めて怪しいし、少なくともそれは私自身の生に切実な意味は持たない。

夜の闇が持つ本来の恐怖性を人間が直観できなくなったのは、それに呼応する内部の直観センサーを人間自身が失ったからである。たしかに現代人にとって夜は恐ろしいものではなくなったが、それは夜を恐ろしいと感じることのできる感受性を現代人側が喪失したことの裏返しだ。私たちの精神からは外側の夜と等しいだけの内側の何かが剥がれ、そして空洞化している。

夜を畏れることができなくなった精神など単なる貧しさの表れである。私は夜を畏れる人間でありたい。

角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家)

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