『量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語』量子物理学に今、革命が起ころうとしている 訳者解説 by 青木 薫

青木 薫2016年09月23日 印刷向け表示
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古典物理学から量子物理学への転換に匹敵する革命とは

20世紀の後半には、次々と大きな粒子加速器が作られ、どんどん高いエネルギー領域に手が届くようになった。加速器でビーム粒子のエネルギーを上げるということは、その粒子の量子波長を短くすることだ(木材伐採用のナタを、手術用のメスにするようなもの)。ビーム粒子をきりきりと絞りあげて、小さな世界を見ようとするわけだ。また、粒子と反粒子のビームを逆向きに加速して正面衝突させれば、両者は打ち消しあって、あとには純粋なエネルギーだけが残される。これは無駄をなくして大きなエネルギーを得る方法である。エネルギーを元手に、身の回りの世界には姿を見せない、質量の非常に大きな(それゆえ、作るためには大きなエネルギーを要する)、新粒子を作り出すこともできる。そうして作られた不思議な粒子たちがダイナミックに相互作用をする、驚くべき量子物理学の世界が、われわれの目の前に着々と広がっていった。

こうして、次々と高いエネルギー領域を目指すアプローチのことを、「高エネルギーフロンティア」という。このアプローチを一般向けに説明するときは、しばしば、「宇宙の始まりに迫る」とか、「未知の(重い)粒子を作る」といったキャッチフレーズが使われる。20世紀には、このアプローチからめざましい成果が上がった。実験と理論とが、あたかも車の両輪のようにうまく噛み合って回り出し、こんにちの量子物理学の基礎となる「標準理論」が作られた。しかし大きな成果が上がったがゆえの副作用もあった。素粒子物理学の実験というのは、次々と大きな加速器を使って高エネルギーフロンティアを切り開くことだ、というイメージが固まってしまったのである。

しかし、そのイメージは間違いだ、とレーダーマンは力説する。レーダーマンは、高エネルギーフロンティアを先頭に立って開拓してきた人物である。しかし第一人者であればこそ、そのアプローチだけがすべてではないことも知っている。そもそも、こんにち量子物理学で記述される、素粒子たちの不思議な世界が、どうやって発見されたのかを考えてみればいい。19世紀の末に古典物理学が完成すると、あとは細部をこつこつ詰めていくだけだ、という見方が支配的になった。物理学にはもうやるべきことは残されていない、物理学は終わったのだ、という気分が蔓延った。

そんなとき、アンリ・ベクレルやキュリー夫妻ら先駆者たちが、古典物理学という壮麗な建物に入った小さなひび割れから漏れ出す、かすかな光に気がついた。そして、当時はまだ誰も想像すらできなかった量子物理学の世界を、初めてその目で垣間見たのである。かすかな光を捉えるためには、東欧のウラン鉱山から譲りうけた何トンもの廃棄物を、汗水たらして精製し、わずかばかりの放射性核種(ラジウムやポロニウム)を取り出すこともやった。精製の方法を工夫し、精密な分析を行ってきわめて稀な現象を捉えたのである。それは非常に実り多い、現実的かつ有力なアプローチだった。

本書の特筆すべき特徴は、ベクレルやキュリー夫妻らの足跡に学び、現代のテクノロジーを駆使することで、現在の実験のパラダイムを変えよう、そして量子物理学に新たな突破口を切り開こうという企てを、レーダーマンが熱く伝えていることだ。その新しい実験のパラダイムが、「大強度(ハイ・インテンシティー)フロンティア」である。

それは、ビーム粒子をきりきりと絞り込む代わりに、非常に多くの陽子を詰め込んで「大強度」のビームを作り、そこからまた大強度の二次粒子ビームを作り出す。そうして得られた強いビームを、さまざまなターゲットにあびせかけ、結果として得られる膨大なデータを精密に分析して、きわめて稀な現象を捉えようというものだ。

フェルミ研究所はいちはやく、高エネルギーフロンティアから大強度フロンティアへと舵を切った。その基幹となるのが、第八章で紹介されている大強度陽子衝突型加速器、プロジェクトXである。

かつて先駆者たちが稀な現象を捉え、古典物理学という壮麗な建物に入った小さなひび割れに気づいたように、こんにちの物理学者たちは、「標準理論」という壮麗な建物に入ったひび割れを探そうとしている。標準理論は絶大な成功を収めたが、それにもかかわらず、物理学者は誰ひとりとして、この理論に満足してはいない。この理論は、自然界の4つの力のうち重力を扱うことができないし、標準理論というひとつ屋根の下にあるとはいえ、電磁気力と弱い力の統一理論と、強い力の理論も、実質的にはつぎはぎの寄り合い所帯だ。

それに加えて、標準理論に登場する粒子たちが、なぜ3つの世代になっているのか、なぜ質量が実験からわかるようなばらばらの値になっているのか、なぜクォークの電荷が電子の電荷の3分の1なのか、といった多くのことが、この理論ではまったく説明できないのである。さらに言えば、この宇宙の少なからぬ部分を構成していると考えられているダークマターを構成する粒子についても、どうやら標準理論では説明できそうにない。要するに、実験と手に手を取って歩んできた標準理論は、実験をみごとに説明する一方で、あからさまな欠点を抱えてもいるのである。

そんななか、標準理論を超えようとするエキゾチックな理論だけはたくさん提案されており、レーダーマンに倣って言うなら、その数は「シカゴに生息する野良猫より多い」ほどだ。科学において真理の判定者は実験であり、新しい世界を切り開くのも実験である。実験家の肩には大きなものがかかっている。われわれの想像を超える世界が、まさに目と鼻の先に潜んでいるかもしれない、いやきっと潜んでいるはずなのだ。かすかな光を捉えて、この難局を突破しなければならない。

古典物理学から量子物理学への扉が開かれ、思いもよらぬ世界が目の前に広がったように、まさに今、量子物理学に大きな革命が起ころうとしているのである。

本書の原書タイトルは『Beyond the God Particle』だが、すでに「神の粒子」を超えた探索が始まっているのだ。

青木 薫

量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語
作者:レオン・レーダーマン 翻訳:青木 薫
出版社:文藝春秋
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