学生時代、生物調査のために同級生たちと森でテント生活をしたことがある。当然、トイレはない。必然的に穴を掘ってそのへんにすることになるのだが、その方法には鉄の掟があった。
「紙は使うな、葉っぱで拭け」
ティッシュは簡単には分解しない。自然環境を学ぶ者として、紙を使わないことは最低限の自然への礼儀であった。
「たかが、野ぐそ」と侮るなかれ。適した葉っぱを見つけるには、鋭い観察眼と植物の知識が要求される。もし、トゲのある葉っぱだったら。見た目はOKでも、毒があったら。トゲや毒はなくても、せっかくならば保水力のあるやわらかな質感のものを使いたい。
こうして私たちは「究極の葉っぱ」を求めて観察し、図鑑を調べ、最適と思われる葉っぱをもつ植物が生える環境をさぐり、植物の知識だけでなく仲間同士の絆をも深めていった。情報交換しなければ、こんな極めて特化された用途を教えてくれる資料など、なかったからだ。
ところが。なんとこのたび「快適にお尻を拭く」ことを追究した植物図鑑が、発売されたではないか! それが本書『葉っぱのぐそをはじめよう』である。
著者は菌類やコケに興味のある人ならばご存知のベテラン写真家。いや、正しくは「もと、写真家」か。著者は2006年に写真家を辞め、以来「糞土師」を名乗っているのだから。
巻末の著者紹介を抜粋すると、
人間不信に陥り、高校中退。自然保護運動を始め、キノコ写真家の道を歩む。信念をもってノグソを始め、伊沢流インド式ノグソ法を確立。21世紀に入ってからの16年間でトイレでしたウンコは舌癌治療で入院中の6回を含めて全部で9回。
……みなさんもいろいろ気になるとは思うのだが、ここでは突っ込まないことにする。
で、本書である。さすがはもと写真家だけに、豊富なカラー写真で、お尻を拭くための植物を紹介してくれる。葉っぱの見分け方だけでなく、葉の起毛状態や、どの季節のどの部分が最適か、生葉と枯葉のどちらがよいか、何枚重ねがよいか、などなど、わかりやすい写真で懇切丁寧に解説されているのだ。さらには「葉の質」「尻触り」「拭取力」までが、巻うんちマークの数でグラフとして数値化されている。すべては、快適で自然にやさしい野ぐそのために。
著者が
高級トイレットペーパーにも負けない素晴らしい葉っぱとの出会いが次々にありました。(中略)拭きたい葉っぱがありすぎて、ひと拭きごとに種類を替えても使い切れないほどの贅沢さ
というだけに、紹介されている植物は80種を超え、タンポポ、ヨモギ、コナラなど身近な野生植物から、カキ、キウイなどの果樹、アジサイやアサガオなどの園芸種まで、じつに多様。やわらかい草の葉には硬い木の葉で裏打ちするなどの「わざ」も披露されている。すべては、快適で自然にやさしい野ぐそのために。
このように、長年の研究成果を惜しみなく伝授してくれる姿勢には脱帽せざるを得ない。しかし、いくら版元があの『冒険歌手』や『逃げろツチノコ』や『山怪』などなど常識破りな奇書を連発してくれる山と溪谷社とはいえ、なにも「野ぐそのためのお尻拭き」でなくても……吸湿性や手触りや強度がよい葉っぱを紹介するなら「紙がなくても、アウトドアでいろいろ役立つ」みたいな本にしたほうが売れるんじゃないの?――と、疑問がわきはしないだろうか。
実際、著者が当初出版を持ちかけた版元からは、そうした「常識的な葉っぱの概念にとらわれた内容に変質」を求められ、企画を断るに至ったそうだ。
ではなぜそこまで、野ぐそにこだわるのか? 著者は決して「ただ、そういう趣味の人」なわけでも、「ただ、奇をてらっただけ」なのでもない。そこには自然界の一員として、生命の循環にきちんと参加したいという理想があった。だから、本書はあくまで「野ぐそのための、お尻を拭く植物図鑑」でなければならないのである。
野生生物は「喰う・喰われる」の世界に身を置き、死ねば分解されて土に還り、再びほかの生き物たちの栄養となって、いのちは巡り続ける。しかしいつの間にか「喰うけど喰われない」「死んでも土には還らない」のが普通になってしまった、私たち人間。災害などで整備されたインフラが破壊されると、とたんに「自然のサイクルから隔離されている現実」が突きつけられる。その最たるものが、トイレ問題なのではないか。
分解者たる菌類を長年にわたって観察・撮影してきた著者がこうした「不自然」な人間の姿に直面し、自分も生態系に参加したいと願った気持ち……わかるような気がする。
もちろん、もとが貧栄養環境の場所に栄養たっぷりのそれを埋めるのは避けた方がよろしかろうし、大人数で高密度にするのもNGだろう。みなさんも行動に移す前に、最低限の「野ぐそリテラシー」は必要かと思う。
本書は具体的な野ぐその方法(場所選び、危険生物への対処法など)もイラストで紹介され、野ぐそ批判に対する著者の回答なども掲載されている。かの宗教学者・山折哲雄先生をして「脱帽してこうべを垂れるしかなかった」という著者の糞土思想に、ぜひ触れてみてほしい。
ふと、想像してしまった。むかしキャンプをしたあの場所に、青々と茂る草花。豊かに実を結ぶ木々と、それを食べる動物たちの姿。――森の生き物たちの営みに、もしかしたらほんの少しだけ当時の私と仲間たちも、参加できたのかもしれない。
おっと、なんだか豊かな気持ちになっているじゃないか、自分。そのきっかけが他ならぬ「野ぐそ」であることに、びっくりだ。
HONZ成毛代表と土屋前編集長の対談も掲載。対談は、こちらでも読めます。
鉄板のうんち本。出版社からのコメントが「うんち好き必読の書」というのも、秀逸……。
宇宙で爆発したウンチの話とか、子どもに大うけしそう。
糞土師・伊沢さんが写真を担当した、わたしも大好きな1冊。著者の田中さんが店主をしている倉敷の古本屋さんは、カメが歩きまわり、立派な顕微鏡が鎮座していた。
ベストセラー『山怪』の続編が発売になったので、山溪つながりでご紹介。