医学界の「怪物」、その壮絶なドラマ『ゴッドドクター 徳田虎雄』

仲野 徹2020年01月11日 印刷向け表示
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ゴッドドクター 徳田虎雄 (小学館文庫)

作者:山岡 淳一郎
出版社:小学館
発売日:2020-01-07
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徳田虎雄。その名を聞いたとき、どのようなイメージが思い浮かぶだろう。医療に風穴をあけた風雲児、潤沢な資金をバックにした金権政治家、あるいは、難病・筋萎縮性側索硬化症(ALS)と闘う患者だろうか。それは世代や立場によって大きく異なってくるに違いない。いや、そもそも若い人には、その名さえ知られていないかもしれない。

まったくの徒手空拳から、昭和48年、大阪の松原市に建設した徳田病院を皮切りに、徳洲会病院を全国に開院。「徳洲会事件」によりすでに経営者の座を追われたといえ、71の病院と約3万人の職員を擁し、グループ全体で4,200億円もの売上げを誇る、日本最大にして世界屈指の病院グループの礎を築いたのが徳田虎雄だ。

その一代記であるこの本、面白くないはずがない。まずは冒頭のシーンで度肝を抜かれる。医療界の話のはずなのに、山口組傘下のヤクザ-警察がいうところの暴力団-の「事始め」の儀式から始まるのだから。このことからだけでも、人生の振幅が極めて大きかった徳田虎雄の凄さがわかる。

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徳田は、幼いころに弟を亡くした。その時の体験が「生命だけは平等だ」という、徳田自身、そして、徳洲会にとって最大の理念になった。米軍統治下の徳之島、小学三年生の徳田少年は、夜半、具合が悪くなった弟の往診を頼むために二キロの山野を走る。しかし、医師がようやく往診にやって来た昼過ぎ、弟はすでに冷たくなっていた。

大阪大学医学部附属病院で蓄膿症の手術を受けたのをきっかけに、大阪大学医学部をめざそうと決意する。そして、姉のいる大阪に移り、「成功するまでは生きて帰るな」という父の言葉をうけて文字通り死ぬ気で勉強する。高校二年生をやりなおし、二年浪人とあわせて、三年間の寄り道の末、阪大医学部に合格した。

その原体験から、離島医療の充実が目的であった。しかし、まずは大阪で病院を建て、いずれ徳之島へ派遣すればいいのではないかと考え、医療法人・徳洲会を昭和50年に設立する。その理念は、
   「生命を安心して預けられる病院」
   「健康と生活を守る病院」

であった。シンプルでわかりやすい、医療者ではなく、完全に患者側からの目線である。その理念が、
   「年中無休・二四時間オープン」
   「患者さまからの贈り物は一切受け取らない」

という徳洲会病院運営のマニフェストへとつながっていく。今はともかく、当時としては画期的なことであった。

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当時は医学部定員が4千人程度。徳田病院が建てられたのと同じ年に、第二次田中角栄内閣が「一県一医大構想」を閣議決定し、私立大学の医学部新設も含め、7年間で定員がほぼ倍の8千人程度にまで引き上げられた時代である。ちなみに、現在の定員は9千4百人ほどだ。人口や年齢構成、医療の内容などを考えねばならないが、基本的に医師不足であり、医療の供給が十分ではなかった。徳洲会の病院が次々と建てられ、住民に受け入れられていったのはそのような時代のことであった。

医療改革を目指した徳田の理念に共鳴して徳洲会を引っ張った医師たちがいた。最初の世代はアメリカ帰り、そして次の世代は全共闘の経験者だった。それらの闘士たちが徳洲会発展の原動力になった。

一方で、徳洲会をよろしく思わぬ勢力があった。サービス抜群の病院が近くにできたら困る医師会だ。完全な抵抗勢力である。しかし、地元の人たちは当然、徳洲会を支持する。政治家にとっては医師会よりも住民の票だ。このようにして、徳洲会はどんどん発展していった。

私は大阪大学医学部を昭和56年に卒業している。その頃、医療に風穴をあけるという理念に感銘をうけて、多くの医学生が徳洲会を目指したかというと、そのようなことはなかった。「年中無休・二四時間オープン」であるが、給与水準は他の病院とそう大きく違わなかったように記憶している。なのに、どう考えてもこき使われそうだ。それに、医局が跋扈し、どの大学でも卒業生の多くが自校の附属病院での研修をおこなう時代であった。なので、徳洲会の研修医になるのは、医療改革に熱き情熱を持つちょっとかわったタイプの人、という印象であったことは否めない。

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医師会との攻防で、徳田は政治力の必要性を感じ始める。そして、衆議院議員になると決意する。立候補した選挙区は徳田の出身地、中選挙区の時代に日本で唯一の小選挙区だった奄美群島特別区である。そして、買収や選挙賭博で現金が飛び交う選挙区でもあった。二度の落選を経て、平成2年にようやく初当選を果たす。その時の選挙で使われたのが現ナマで少なくとも30億円というから壮絶だ。

その原資は徳洲会からの裏金だった。徳洲会の理念に共鳴して参加した医師たちの心が離れていったのは無理もない。そんな中、ナンバーツーとして徳田を支えたのは、「徳洲会は医療を変える社会運動体」と考える徳之島出身の盛岡正博医師だった。

冒頭のシーンで、暴力団の組長に交渉に赴くのが盛岡である。徳田、盛岡、組長、いずれもが徳之島の出身という関係だ。そこまでした盛岡であったが、後に徳田に裏切り者の烙印を押され、徳洲会を去り、農村医療の実践者・若月俊一が一代で築き上げた佐久総合病院へと移ることになる。

若月は盛岡を佐久に誘う、「虎ちゃんには僕が話すよ。任せてよ」と。50年の長きにわたり「殿様」を続けた若月に盛岡は訊く「なぜ、先生は、こんなにも長く、殿様を続けることができたのですか」と。「それは、愛だな」という短い答えがあった。このとき、すでに若月は院長職を後任に譲っていた。

若月の人となりは、同じ病院に勤めた芥川賞作家・南木佳士の『信州に上医あり』(岩波新書)に詳しい。「愛」は病院、それとも、患者たちに対するものなのだろうか。あるいは、キリスト教でいうところのアガペーのような無償の愛なのだろうか。

完全なサイドストーリーではあるが、強く印象に残るシーンだ。徳田王国は50年も続かなかった。マルクス主義から農民の医学に取り組むようになった若月。少年時代のルサンチマンから離島医療を目指した徳田。その原体験、理念、展開した場所も経歴も違うが、ともに医療を民衆に広く行き渡させようとした二人である。この二人を分けたものはいったい何だったのだろう。徳田には何かが欠けていたのだろうか。それとも、他の何かが過剰にありすぎたのだろうか。

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一度の落選をはさんで、衆議院議員を四期務めた徳田は、金に飽かせてさまざまな政治活動をおこなう。しかし、結果として大きなことはなし得なかった。そんな頃、ALSを発症する。ALSは全身の筋肉が動かなくなる神経系の進行性難病である。うまく嚥下ができなくなったために平成16年には胃瘻の作成術が、翌年には気管切開がおこなわれ、人工呼吸器がつけられた。それでも徳田は、病気を振り払うかのように、ブルガリアでの病院建設、財政の改善など、積極的な活動を進めていった。

発症に気づいたころ、徳田は後継者に長男・哲を指名する。社会的存在であるはずの徳洲会を世襲させることに対して、徳洲会グループから猛烈な反発がおこったのは当然だろう。世の中のためと思えばこそ頑張ってこられた人も多かったのだから。しかし、そういった動きも、腹心中の腹心、徳田のためならば「人殺し以外なんでもする」と嘯き、表の稼業だけでなく、違法選挙なども取り仕切ってきた能宗克行によって抑え込まれる。

その能宗も徳田ファミリーから疎まれて対立するようになり、暴力団員との交際を理由に懲戒解雇される。能宗は反撃のために、徳洲会ぐるみでおこなった選挙違反の詳細や、衆議院議員であった次男・毅の「準強姦」事件などを曝露する。この顛末が徳洲会事件である。そして、この事件を契機に、徳田王国は崩壊した。

しかし、徳洲会は解体されなかった。確実なところはわからないが、おそらく、徳洲会をなくすと、日本の医療が不具合をおこしてしまうからではないかと考えられている。たった一人の男の理念と行動が、そこまで大きな医療帝国に育っていたのである。

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大きな流れはもちろんだが、小さなエピソードも満載で面白い。それぞれの読み手が違ったところに興味がひかれるはずだ。盛岡と若月の会談に並んで私が惹きつけられたのは、徳田が初当選した時のエピソードである。

無所属で当選した徳田であったが、自民党に追加公認されることがほぼ確定していた。しかし、徳田が支持者に漏らした不用意な一言のため、大物政治家の怒りにふれ、その内約は反古にされてしまった。

そこで自民党員になれていたら、徳洲会をバックにした豊富な資金で、自由連合といった寄せ集めの政党を作ったりせず、派閥の領袖になっていたかもしれない。徳田が望んだ総理大臣は無理だったとしても、厚生大臣にはなれたかもしれない。そんな未来もありえたはずだ。

もしものことなど考えても意味はない、と思われるかもしれない。しかし、一代でそこまでのことを成し遂げた人物である。厚生大臣としてどのような医療改革を打ち出していただろう、高齢社会に向けてどのような手を打っていただろうかと夢想するのも楽しい。もし、金にまみれた奄美群島特別区からの出馬にこだわらなければ、もしALSに冒されなければ、など妄想はつきないのであるが。

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医師の世界は、お互いを「先生」と呼び合う世界である。ましてや私にとっては大阪大学医学部の先輩なのだから、徳田先生と書くべきところだ。けれども、この解説では呼び捨てにさせていただいた。読みやすさの点もあるが、お目にかかったこともないのに、先生と呼ぶのはむしろ失礼ではないかという気がしたからだ。礼儀知らずではなくて、大科学者や大作家を呼び捨てにするのと同じようなものとご理解いただきたい。

閑話ついでにもうひとつ。徳田虎雄と同期の先生に「徳田先生ってむちゃくちゃ怖い人とちがうんですか」と訊ねたことがある。その答えは「いやぁ、そんなことない。おもろい人やで」ということであった。人間は誰もが多面的であるといえばそれまでであるが、友人に見せるそういった側面があると思うと、この本の面白さが倍加する。

考えてみれば当たり前のことかもしれない。理念や能力、強引さ、金力のようなものだけで多くの人を引きつけ、一丸となって大仕事を成すことなどできはしまい。カリスマのような魅力がなければ不可能だ。

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徳田虎雄、毀誉褒貶の振幅があまりにも大きい人物である。全体として見れば、誉と褒よりも毀と貶に重きを感じるが多いかもしれない。しかし、この本を読めば、ある時代においてという限定付きになるかもしれないが、その果たした正の役割は相当に大きかったことがわかる。

徳田先生は、湘南鎌倉総合病院の15階に入院し続けておられる。徳洲会の理念ではないが、二四時間、休みなしの完全看護である。唯一動かすことのできる目を使ってしか、意思を表す方法はないという。はたして、いまの日本の医療についてどのようなことを考えておられるだろう。この本を読みながら、そんなことも妄想したくなってしまった。
 

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ
作者:井村和清
出版社:祥伝社
発売日:2005-09-16
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徳洲会の医師だった井村和清の大ベストセラー。この本の映画化とその成功が徳田の政治家転向のきっかけになったとは。紙の本は絶版みたいです。
 

信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書)
作者:南木 佳士
出版社:岩波書店
発売日:1994-01-20
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若月俊一も別の意味で怪物です。南木佳士の若月に対するアンビバレントな感情がうまく書かれたいい本です。これも絶版ですが。
 

若月俊一―農村医療にかけた30年 (人間の記録 (56))
作者:若月 俊一
出版社:日本図書センター
発売日:1997-12-25
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これは入手可能ですね。興味がある人はぜひ。

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