『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』 文庫解説 by 片山 杜秀

新潮文庫2020年02月27日 印刷向け表示
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ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた (新潮文庫 あ 101-1)
作者:青山 通
出版社:新潮社
発売日:2020-02-26
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1968年のまだ冬か春浅き頃のことだ。父が会社からシールのシートを一束持って帰ってきた。私は幼稚園の年少組から年中組に上がる頃。満4歳である。

シールは「ウルトラセブン」の番組宣伝用だった。父の勤める広告代理店は、TBS系列の日曜夜7時から30分間、大手製薬会社が単独でスポンサーをしていた番組枠を担当することを、大きな食い扶持ちにしていた。その枠で前年秋から放送されていたのが「ウルトラセブン」である。子供向きの枠だから子供に宣伝させるのが早道。私が友達にシールのシートを配る。そのために、父は宣材を家にときおり持ち帰ってきた。「ウルトラセブン」の前に同じ枠で放送されていた「ウルトラマン」や「キャプテンウルトラ」のときから、そうだった。

「キャプテンウルトラ」でも同様のシールがあった。「ウルトラマン」のときも似た宣材のあった記憶がある。一枚のシートに、何枚もの円形のシールが貼ってある。小さめの薬瓶の底くらいの大きさだろうか。図柄はみんな同じ。ウルトラマンやキャプテンウルトラやウルトラセブンのスチール写真である。もちろんそれを剥がしてどこかに貼るのだ。

「キャプテンウルトラ」のときは大変だった。親の目を盗んで、何十枚かのシートをつかい、家中にシールを貼りまくってしまった。テレビの側面、炬燵の足、襖、床柱、食卓の上、箪笥の正面。手の届く限りの場所に貼った。一度貼ると、なかなか剥がせるものではない。我が家の至るところ、キャプテンウルトラの主演俳優、中田博久の顔だらけになった。キャプテンウルトラというキャラクターは普通の人間である。変身しない。だから中田博久の素の顔がそのままキャプテンウルトラである。彼が真ん中に写って格好良くポーズを決めている。えらく母から怒られた。特に箪笥に中田博久が並んだのは拙かったらしい。嫁入り道具だったのではないか。餓鬼の蛮行であった。

「ウルトラセブン」のシールのときは、それから半年以上経っていたろう。さすがに同じ過ちは繰り返さなかった。少し成長していた。家でも貼って良いところに貼り、友達にもたくさん上げた。「ウルトラセブン」は幼稚園でも大きな話題だったから、喜んでくれる友達が幾人かいた。

子供にはシールが嬉しい。「キャプテンウルトラ」や「ウルトラセブン」のシールを剥がし貼った半世紀以上昔の感覚は、今も指に残っている。剥がれる喪失感と貼る再生感がいいのかもしれないし、剥がす暴力性と貼る抱擁感(絆創膏を貼って安心するみたいな)がまたよいのかもしれない。随分と快感があった。剥いて貼ることに陶酔できた。

そういえば、私が「ウルトラセブン」に登場する種々のアイテムの中で、幼心に猛烈な憧れを抱いたのは、天翔けるウルトラホークでも、地を疾走するポインターでもなかった。セミ・レギュラー(というほどにも出てこないのだが)のカプセル怪獣である。ミクラスとウインダムだ。アギラもいるのだが、なぜかどうしてもミクラスとウインダムでなければならなかった。

カプセル怪獣とは、「ウルトラセブン」で題名役に変身するウルトラ警備隊の隊員、森次浩司(現・晃嗣)扮するモロボシ・ダンが、カプセルに入れて携行している。自分が戦えないとき、代わりに出現させる。普段は小さなカプセルの中に居るのに、投げると巨大化する。きちんと戦う。あまり強くないが、そこがかわいい。好きなタイミングでまたカプセルに戻せる。

自分もカプセル怪獣が欲しい。かなり真剣に思った。思い詰めた。子分や弟分が居たらいいという単純な気持ちだったのかもしれない。でも、子分や弟分をカプセルに入れて携行したいとまでは、普通は願うまい。カプセル怪獣への熱烈な憧憬。それは監禁のモティーフと結びついていたのではないかと、青年期になってからおのれを振り返るようになった。多分に性的かつ倒錯的なのである。そして道具的である。ついでに言うと蒐集的である。好きなときに好きなようにして、あとくされなしで、またカプセルの中で眠ってもらう。何て身勝手なんだ! しかし、人格なき道具や物体を完全に支配し操作する願望、さらには別人格を意のままにあやつる夢なくして、人間は成長できまい(本当に他人をあやつるかどうかはまた別問題です)。

性的と言えば、ウルトラマンやウルトラセブンの、あのスーツ状というかスーツそのものが皮膚になっている身体がまた、かなり官能的に感じられた。ゴジラだと全くそうならない。ゴジラはもっと原初的形象だ。畏怖したり、逃げたくなったりするものだ。ところが、ウルトラマンやウルトラセブンをみると、抱きついたり、引っ叩いたりしたくなって、たまらないことがあった。実際、そういう遊びを小学生の頃にはしていた。

「ウルトラセブン」には、幼年期から少年期(それもやはり男の子の幼少年期だ、私も男の子だったし、本書の著者も男の子だったのだ。もしも青山通さんが女の子だったら、これはもう文明の大転倒だ)そして大人へと成長してゆくときに、避けては通れないあまりに多くのものが盛られていたと思う。その意味で「ウルトラセブン」は「ウルトラマン」以上に、男の子向け教養小説・成長小説的な世界を提供してくれる典型中の典型なのだ。

ゴジラのような自然的・原初的な身体でなく、ウルトラセブンのような人工的・象徴的・仮面的な(だからこそ官能的でもある)身体も、飛行機も宇宙船も自動車も銃器も、男の子の成長には必要だ。それから、多彩な欲望、あるいは多様な教訓の種々の象徴のような、超現実主義的ななりの宇宙人たち。これも絶対に必要だ。ガッツ星人に絶対的敗北のイメージを、ワイアール星人にがんじがらめにされるイメージを、ポール星人に行き倒れるイメージを教えられた。抽象的概念でも歴史的経験でもなく、姿と物語が直結して刷り込まれる。たくさんの宇宙人の図柄が、ストーリーと連関しながら、タロットのカードか何かのような類型として、心に一生もので刻まれる。精神の入れ墨のようなものだ。

その場合、「ウルトラマン」の怪獣もそうなってよさそうなものだが、やはり宇宙人がより人間的な形状をし、宇宙人のいかにも地球人と同次元で考えられる欲望(だいたい政治的・経済的・社会的な意味合いを多分に含む侵略や侵犯に関わるのが宇宙人の思想と行動なのだから)が物語を支配していることが、とても重要なのだろう。宇宙人のイメージは少年の成長期の心に甘かったり辛かったりする傷痕を残し、教養小説的形象になるが、怪獣のイメージはいつまでたっても幼児的な逸楽やおののきと不可分である。

まだまだ幾らでもある。「ウルトラセブン」では、菱見百合子(現・ひし美ゆり子)扮するアンヌ隊員のような魅惑的な女性が男の子の夢をかきたて、フルハシ隊員とソガ隊員とアマギ隊員は組織を構成する男性の性格の類型学を与える。地球防衛軍のような巨大な組織のイメージも大切だ。そういえば私は、小学校の低学年の頃、名刺作りを遊びにしていた時期があった。文房具店で名刺用の紙を箱でまとめ買いする。太めのペンで自分の名前を書き入れる。肩書は全部変える。「地球防衛軍日本支部秘書室長」とか「地球防衛軍日本支部東部軍管区作戦参謀」とか、いかにもありそうに思えた役職を、机の傍らに『国会便覧』などの種本を置きながら、際限なく作って、何百枚もの自分の架空の名刺を積み上げ、悦に入った。「ウルトラセブン」の地球防衛軍という巨大組織のどこかの歯車になる幻想が、大きな世界を感じさせてくれた。「ウルトラマン」の科学特捜隊だと子供心にはややスケールが小さく感じられ、子供の誇大妄想を育ててくれないうらみが残った。

やはり「ウルトラセブン」がすべてを教えてくれたのだ。音楽についてもずいぶん。私は青山通さんよりも3つ年下だけれど、本書の書き出しに倣えば、「ウルトラセブン」の放送当時、東京の武蔵野市の武蔵境駅の北口から三鷹寄りに10分以上歩いたところに、両親と生まれたばかりの妹とともに住んでいた。当時のそのあたりは、鉄道廃線がそのままで、その線路の上が遊び場で、原っぱがあり、竹藪があり、畑があり、未舗装の道が多く、すぐ水たまりが出来て、幼稚園に通うにも、ゴム長靴が欠かせなかった。新宿には傷痍軍人が居て、私は武蔵境駅前の本屋で日本海軍の軍艦の写真集を漁る幼稚園児で、ベトナム戦争下の立川の米軍基地のそばに父親に連れていってもらっては米軍機を眺めるのがとても楽しかった。幼稚園の年長組の年に、1969年4月28日の沖縄反戦デーでの火焔ビンの飛ぶ騒乱状態を実見しておののいたのが、大きな暴力にまつわる根源的記憶になっている。青山さんの記述ととてもダブる。

もっと余計なことを言うと、青山さんは1971年に世田谷区から杉並区に越されたそうだが、私はその前年に武蔵野市から杉並区に移っている。電車で都心の小学校に通ったのも同じだ。青山さんはシューマンの「子供の情景」を演奏した経験に本書で触れておられるから、早くからピアノを習われていたのだと思うが、私も下手でどうしようもなかったけれど、武蔵境の時代からヴァイオリンを習わせられていた。まことに僭越ながら、ここにまぎれもない同世代人が居ると強く思い、共感のボルテージが否応なく上がってくるのである。

その青山さんは「ウルトラセブン」の最終回に流れた音楽に感激した。本書の肝腎要である。そこから手探り耳探りで、それが番組の音楽担当の冬木透のオリジナル曲ではなく、シューマンのピアノ協奏曲であったことをついに知る。普通ならそこで完結する。ところが、満足しない。先に行く。使われた録音を知ろうとする。演奏者探し、盤探しだ。

青山さんの軌跡の、クラシック音楽ファンとしての内発的な王道性に驚く。クラシック音楽ファンの辿るべき王道とは、自分の性に合う至高の名曲を見つけ、その作品のさまざまな演奏を聴き比べて、名曲の内包する可能性を味わい尽くそうとする道であろう。青山さんはその道に、「ウルトラセブン」の最終回の音楽によって自ずと引き込まれた。青山さんの耳が、むろんドラマと相俟ってのかたちだけれど、シューマンのピアノ協奏曲を発見した。親や学校の先生にクラシック音楽を聴かされるとか、名曲入門の類で評論家や音楽雑誌に導かれるとか、これが名曲だと押し付けられるとか、そういう外発的なルートとは違っている。そうしてシューマンのピアノ協奏曲のさまざまなピアニストや指揮者やオーケストラの演奏による差異に耳を開いていく。

そのこだわりは知識教養とは違う。演奏の聴き分けができないと玄人の音楽ファンとは言えないからといった一種の見栄から来るものでもない。「ウルトラセブン」の最終回に流れた演奏の正体を知りたいという飢渇からこだわりが生まれる。内発的の内発的たる所以である。

そう、飢渇なのだ。本書は、20世紀のひとりの子供がクラシック音楽の名曲とここまで見事に出会い、そのあとの長い人生にこれまた見事につなげてゆく、貴重なドキュメントである。クラシック音楽と人は、たとえば楽器の稽古で出会い、コンサートで出会い、レコードで出会い、バレエやオペラを観に行って出会い、テレビやラジオのクラシック音楽放送番組で出会い、学校の音楽の授業で出会うだろう。でも、それらに優るとも劣らず、映画やテレビドラマのBGMで出会い、印象付けられることも多いだろう。20世紀以降の新たな出会い方とも言える。音の付いた映画もテレビも20世紀の産物なのだから。

たとえば映画なら、「逢びき」でラフマニノフに、「スティング」でスコット・ジョプリンに、「2001年宇宙の旅」でリヒャルト・シュトラウスに、「ベニスに死す」でマーラーに、「地獄の黙示録」でワーグナーになじんだという方がたくさん居られるに違いない。だが、そこに原則として飢渇は生じないはずだ。なぜなら映画のクレジットを観、パンフレットを読めば、あるいはサントラ盤を探して聴けば、映画で使われたクラシックの名曲の、演奏者を含めた正体は明らかになる。

でも、「ウルトラセブン」だとそうはいかない。他の多くのテレビのドラマやドキュメンタリー番組でも同様だ。昔のテレビのクレジットはたいていの場合、そこまでの情報を教えてくれなかった。「ウルトラセブン」なら、音楽担当は冬木透と出、あとは主題歌に関する必要事項だけだ。もしも、ドラマの中にオリジナルでなさそうなBGMが流れ、それが知らない曲であった場合、制作元に問い合わせるか、音の記憶を頼りにいろいろ聴いて探し当てるかしか、手はなかった。そこに飢渇が生まれる。こだわりが深ければ、正体が分かるまで長くわだかまることになる。高度成長期であっても、そういう飢餓海峡はあったのである。青山さんの場合はまさにそのパターンだ。その長いわだかまりが青山さんのクラシック音楽ファンとしての価値観と耳を育てた。

そうした道を辿って、クラシックかジャズか民族音楽か、音楽ファンになる人はけっこういると思う。だが、その軌跡がここまで生々しく書き表された本は、そうそう無いのではないか。

生意気なようだが、私はそんな青山さんのことがとてもよく分かる気がする。私も「ウルトラセブン」のドラマや世界観のみならず音楽に、幼い日からはまった口で、最終回のシューマンにもだけれど、冬木透作曲の主題歌、挿入歌、BGMにたいそう惹かれてしまい、小学生になると、再放送時にカセット・テープでドラマ全部をまるごと録音するようになった。まだ、家庭用のテレビ録画機は発売される以前の時代で、「ウルトラセブン」のBGMのレコードも存在しない頃だから、ほかに手がなかった。

そうして手元に残せるようになった「ウルトラセブン」のBGMの中で、私には冬木透のオリジナルとは思えない曲が幾つかあって、そのひとつが本書でも触れられているメトロン星人の回の「フルートとピアノのための協奏曲」だった。私はこの曲の正体が小学生の頃、気になってたまらなかった。どう聴いてもモーツァルトそのものかその編曲ではないのか。しかも名曲なのだ。これこそモーツァルトの中のモーツァルトではないか。私の中に、メトロン星人の回の音楽がモーツァルトの名作からの引用編作に違いないとの確信が次第に育った。

しかし本当のことはなかなか分からない。そのうち冬木透がクラシック音楽のレコード批評家としても活躍し、モーツァルトを論じることもあると知った。冬木透推薦の、ルドルフ・バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲集などを買い求めた。同じメロディが出てくるのではないかと、いろんなモーツァルトの作品を聴いた。けれど一致するものがない。中学生になった頃、ようやく真相を知った。冬木透がモーツァルト風に作曲したオリジナルだと言う。私は不明を恥じた。冬木透の作曲における擬態という得意技に思いが及んでいなかった。そんなことに何年も拘っていたうちに、私はモーツァルトをどれだけ聴いたか分からない。「ウルトラセブン」がモーツァルトを教えてくれたということか。引き出しが多く何にでも化けるフユキ星人こそ「ウルトラセブン」最強の宇宙人だったのかもしれない。

本書は、1960年前後に生まれた世代のテレビや音楽やレコードへの接し方についての大切な記録であることはもちろん、クラシック音楽を好きになるとはどういうことなのかを考えるためのひとつの入門書でもあり、青山少年の成長物語でもあるだろう。

このようにして人の心に刻まれた音楽は、その人の魂とともに永遠にある。

(2020年1月、思想史家・音楽評論家)

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