『宿無し弘文』ジョブズが師と仰いだ日本人僧侶の生涯

2020年5月4日 印刷向け表示
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宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧

作者:柳田 由紀子
出版社:集英社インターナショナル
発売日:2020-04-23
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禅には昔からおっかないイメージがあった。
それはきっと若い頃に読んだエピソードが強烈だったせいだろう。
禅の始祖である達磨に弟子入りを乞い、覚悟のほどを示すために自らの左肘を斬り落としてみせた慧可のエピソードである。雪舟の国宝『慧可断臂図(えかだんぴず)』にも描かれた有名な場面だ。

この話を初めて知った時、あまりに訳がわからなすぎて混乱した。弟子入りを断られたからといって腕を斬る慧可もどうかしているが、それを見て「その意気やよし」と弟子入りを認める達磨もどうかしている。もちろん宗教というのは、自分のような凡夫の常識が及ばないものなのだろうが、それにしても無茶苦茶である。この訳のわからなさに加えて、坐禅で姿勢を正す際に使われる警策(きょうさく)の痛そうな印象もあいまって、禅は怖いというイメージが刷り込まれてしまったのだ。

だから、スティーブ・ジョブズがなぜ禅に傾倒していたのか、ずっと疑問だった。かの有名なスタンフォード大学でのスピーチ(「ハングリーであれ、愚直であれ」)にしても、昔から禅が説いてきたことそのものだという。ジョブズはいったい禅のどんなところに惹かれたのだろう。

そこにはひとりの禅僧の存在があった。そのひとの名は、乙川弘文(おとがわ・こうぶん)。スティーブ・ジョブズが人生の師と仰いだ人物である。2011年にジョブズが逝去すると、にわかにこの禅僧に注目が集まった。著者は当時アメリカで出版された、弘文とジョブズの30年にわたる交流を描いた『ゼン(禅)・オブ・スティーブ・ジョブズ』の翻訳を通じて、乙川弘文という人物に興味を抱く。

だが、その時点で弘文はすでに鬼籍に入っていた。禅の世界では、傑出した僧ほど、表面に出ることを嫌い、身をくらまして生きるという。弘文の足跡や思想もまったくといっていいほど謎に包まれていた。だが、わずかに残された弘文の言葉に触れるうちに、著者の「知りたい」という想いは募っていった。そして弘文と関わった人々を訪ね歩く長い長い旅が始まったのだ。

本書には、弘文を知る31人の証言が紹介されている。
著者は関係者に話を訊くために、自らも居を構えるアメリカじゅうを飛び回り、日本やヨーロッパにも足を運んだ。本書は、弘文を知る人々の言葉を辿るうちに少しずつ人物像が浮かび上がってくる構成になっているのだが、人によって弘文の印象は時に正反対で、その人物像はなかなか明確な像を結ばない。多くの人がいまだに弘文に思慕の念を抱く一方で、ひどく酒に溺れていたという声があり、女性関係にだらしなかったという証言もある。事実、弘文は2度結婚しているうえに、10年にわたり同棲した女性もいた。はたして乙川弘文なる人物は、類稀な高僧だったのか、それとも破戒僧だったのか……。

弘文は1938年、新潟県加茂市の定光寺の息子として生まれた。ジョブズより17歳上である。僧として見た場合、その半生は、エリートそのものといっていい。高校時代に曹洞宗の高僧として知られた澤木興道の坐禅会に参加し、澤木を師と慕うようになり、駒澤大学を経て、京都大学大学院に進み仏教学を専攻。修士課程終了後に、永平寺に上山し修行僧となった。

同期だった人物の証言によれば、京大の院を出て西田幾多郎の哲学書を読みこなす弘文は、当初から異色の存在だったらしい。特別僧堂生に抜擢されるなど宗門の期待を一身に集めていたが、1967年に渡米し、カリフォルニア州のタサハラで、北米初の本格的禅道場、タサハラ禅マウンテンセンターを開創した。

本書で初めて知ったのだが、ヒッピー・ムーブメントに沸く70年代のアメリカでは、禅は憧れの目で見られており、禅僧というだけでとにかく女性にモテたという。時は60年代の性革命を経た「フリー・ラブ」の時代である。理屈で凝り固まっていた優等生の弘文には、衝撃的な体験だったに違いない。なにしろいきなりセックスの問題に直面したのだから。だが、モテたからといって、弘文は女性に溺れたわけではなかった。

実は禅道場を開いた当時、弘文は山小屋に1ヶ月間、引きこもっている。どうやらこの時、弘文の中で劇的な変化が起きたらしいのだ。その内面のドラマがどんなものだったかはぜひ本書で確かめてほしいのだが、それは僧としての生き方に関わる決断だった。弘文の真意を知れば、女性にだらしないという印象が180度変わるだろう。

渡米後の弘文の人生は波乱に富んでいるが、その最期も極めてショッキングなものだった。親子ほども歳の離れた女性との間に生まれた幼い娘とともに溺死したのだ。その亡くなり方にしても、ある者は酔って溺れたと云い、ある者は心臓麻痺だったと述べるなど、情報は錯綜している。

だがこのように人によって食い違う証言も、著者の粘り強い取材によって、少しずつ像を結んでいく。このプロセスが実にスリリングだ。当初は、弘文の背中を必死で追いかけているような思いで取材を続けていた著者だったが、ある時、弘文が最初から自分の方を向いていたことに気づき愕然とする。著者の目に初めて見えた弘文の姿には、読者も思わず息を呑むはずだ。そこには壮絶な人生を歩み、傷だらけになった僧侶の姿があった。

ジョブズにも、このような弘文の姿が見えていたのだろうか。
本書を読むと、ジョブズは人生でもっとも苦しい時期に弘文を必要としていたことがわかる。ふたりはきっと出会うべくして出会ったのだ。ジョブズが弘文や坐禅から何を学んだかはぜひ本書を読んでほしいのだが、ひとつ言えることは、不遇時代のジョブズが、禅を通して、自分が真になすべきことを知ったということである。

それにしても乙川弘文は、なんとスケールの大きな人物であることか。
この本を読み終えた時に浮かんだのは、「徹底的な受容」という言葉だった。
ある老師が老婆に「地獄に堕ちたらどうしましょう?」と訊かれ、「願って地獄に堕ちろ。わしも堕ちていく」と答えたという。弘文もまた、自ら願って地獄に堕ちた人間であった。相手がどんな人間であろうと一身に受け容れる。それが弘文の生き方だった。それは寛容という言葉ですら生ぬるい、もっと徹底したものだ。たとえ我が身を滅ぼそうともあなたを受け止めよう、というような、突き抜けた覚悟である。

曹洞宗の開祖道元の言葉に、〈風性常住〉(ふうしょうじょうじゅう)というものがある。理論に安住していても風は起きない、行動しなければ事は動き出さない、という意味だという。本書の表紙を飾るのは、山野を行く弘文の写真である。墨染の法衣は足元からまるで風をはらんでいるかのようだ。

出世を捨て、ひとりの僧として、俗世に塗れて生きること選んだ乙川弘文。
まさしくそれは、〈泥の中の蓮〉のごとき生涯だった。

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

作者:鈴木俊隆
出版社:サンガ
発売日:2012-06-20
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弘文の才能を見抜き、アメリカに招くきっかけをつくった高僧、鈴木俊隆の法話集。ジョブズも愛読していたという。

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

作者:ロバート・M. パーシグ
出版社:早川書房
発売日:2008-02-01
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弘文が渡米した当時のアメリカの雰囲気がよくわかる一冊。本書は刊行後、全米ベストセラーになったが、バイクで著者とともに旅をした息子は、後に暴漢に殺されてしまう。人生は無常である。

禅とは何か-それは達磨から始まった (中公文庫)

作者:水上 勉
出版社:中央公論新社
発売日:2018-12-21
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達磨と慧可のエピソードは本書で読んだ。幼くして禅寺に預けられた著者が、名僧たちの生涯と思想について語った一冊。禅の歴史を一望できる名著。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

作者:京極 夏彦
出版社:講談社
発売日:2001-09-06
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個人的には、禅の入門書としては本書をおすすめしたい。辞書のような厚さだが、臆せず手に取ってほしい。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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