『闇の脳科学「完全な人間」をつくる』 その先駆者の栄光と悲劇、そして「脳操作」の現在と未来

仲野 徹2020年10月14日 印刷向け表示
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闇の脳科学「完全な人間」をつくる
作者:ローン・フランク
出版社:文藝春秋
発売日:2020-10-14
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  同性愛の「治療」を受ける男。娼婦を相手に性的興奮を得ることができれば成功だ。男の頭には電極が差し込まれており、後頭部から4本のコードが隣の部屋まで延びている。その部屋では、研究者たちが電極から送られてくる計測値を見ながら、男の快楽中枢に適切な電気刺激を与える。
 まるでSFだ。しかし、未来の話としてはおかしいと思われないだろうか。現在の状況を考えると、LGBTが治療対象となる未来などやってくるはずがなかろう。未来物語でもなければ架空のストーリーでもない。米国で実際におこなわれた人体実験なのである。
本書『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』の冒頭シーンがこれだ。いったいどんな内容の本なのか。意識せずとも期待感が広がっていく。まるで脳のどこかに電気刺激が与えられたかのように。
 この実験をおこなったのは、精神科医ロバート・ガルブレイス・ヒース。統合失調症や鬱病などさまざまな精神疾患に対して、患者の脳深部に電極―ヒースの命名によると「脳ペースメーカー」―を用いた治療をおこなっていた。

 あまり知られていないが、パーキンソン病などに対して、脳ペースメーカーと基本的には同じ方法である脳深部刺激療法(DBS)がおこなわれている。現在、日本でも保険適用が認められている治療法だ。なので、1950年代、70年も前に脳ペースメーカーを考案し、ニューオーリンズにあるテューレン大学の精神科と神経科の学科長として30年にもわたって君臨したヒースはDBSの先駆者として高く評価されている。と言いたいところなのだが、その名はほとんど忘れ去られてしまっているという。いったいどうしてなのだろうか?
 きわめて魅力的だったヒースだが、DBSの嚆矢ともいえる脳ペースメーカーの開発者として成功を収めたにもかかわらず、とあるスキャンダルから歴史の闇に葬り去られてしまっている。その波瀾万丈の物語。そして、DBSによる「精神の操作」というにわかには信じられない研究の最前線。本書は、これらふたつを見事にあざなってまとめあげた科学ノンフィクションだ。

 このような話を読む時には、時代的な背景を知っておく必要がある。今ではいろいろな向精神薬が開発され、精神科の治療は薬物療法が主流になっている。しかし、1950年当時は、まだそのような薬物はひとつもなかった。重症の精神疾患患者に使われた治療法は、電気ショックであり、ロボトミーであった。ミロス・フォアマン監督、怪優ジャック・ニコルソン主演のアカデミー賞映画『カッコーの巣の上で』を思い出される方も多いだろう。
 統合失調症に対する治療として1936年に始められた大脳の前頭葉切除手術がロボトミーである。たいした科学的エビデンスのない治療法であったが広くおこなわれ、ポルトガルの神経外科医アントニオ・エガス・モニスはその業績で1949年にノーベル生理学医学賞を受賞している。
 ロボトミーのような精神外科手術では、当然、脳のある機能を完全に破壊してしまう。そういった方法に懐疑的であったヒースが考え出したのが脳ペースメーカー法である。それは、「ポジティブな感情が宿る脳内領域を電気的に刺激することによって、失快感症を起こした統合失調症患者の脳に喜びや快感を呼び覚ますことができるかもしれない」という発想に基づくものであった。
 統合失調症に対する最初の人体実験での成果に喜んだヒースたちであったが、周囲の評判は惨憺たるものだった。それでも、ヒースはひるまなかった。魅力的なヒースは多くの若者を引きつけ、毎年のようにベスト・ティーチャーに選ばれ、テューレン大学の医学生の四分の一もが精神科を志望したことまであったという。毀誉褒貶の中、脳ペースメーカーを使って次々と業績をあげていくヒース。その野心は「精神と脳の関係を理解する」というものであった。しかし、冒頭の実験からもわかるように、それは同時に、人間を操るというものでもあった。
 怒れる若者たちが、ヒースたちによる「クレージーな実験」を糾弾するデモをおこなった。1973年のことだ。それを受けて、ヒースは議会上院の公聴会で証言をしなければならなくなる。あくまでも当時としてはであるが、ヒースは倫理的な問題に細心の注意を払っていた。しかし、かつてやみくもにおこなわれすぎたロボトミー手術などの精神外科手術に対する反発もあり、窮地に追い込まれざるをえなかった。これも時代である。
 このような出来事があったためだろう、サイエンスライターである著者ローン・フランクがヒースについて問い合わせても、テューレン大学の反応は冷たかった。しかし、フランクは地道に調査を続ける。圧巻はヒースの息子との接触だ。なんと、快楽を意味する言葉である「ヘドニア」と名付けられた別荘に、冒頭の実験の映像が残されていたのである。フランクはその映像を見て率直に書く。「ヒースを非難する人たちの気持ちが、私にはよく分かった。この実験は本当に倒錯的だ。そう思わずにはいられない」と。そして続ける。「でも、それはなぜなのだろう」と。
 鬱病の原因となる脳領域を発見したDBSの大家ヘレン・メイバーグが、ヒースの著書である『心と脳の関係性を探求して』という本を手に取りながら「それは先見の明のある研究だったのか、それとも狂気の沙汰だったのか。どんなふうに見るか、どんなプリズムを通して見るかによって、どちらとも言えると思います。」と語るシーンがある。この言葉がヒースの研究のすべてを表している。

 ヒースの物語と並行して語られるのは、DBSの現状だ。おそらく、日本でDBSについての話をよく知る人は多くないだろう。橳島次郎(ぬでしまじろう)の好著『精神を切る手術―脳に分け入る科学の歴史』によると、日本ではロボトミーをはじめとする精神外科手術を外科医ではなく精神科医がおこなうことが多かった。そういったことに対する批判が学生運動とあいまって、精神外科は「禁断の悪」という烙印を押されてしまったというのだ。DBSは精神外科とは違うものだが、そのような歴史から、我が国でDBSの精神科領域における研究があまりおこなわれていない。なので、耳にはいる機会が少ないのだ。
 それはさておき、この本を読んで、DBSの研究がここまで進んでいるのかと心底驚いた。パーキンソン病は言うに及ばす、ヒースが試みた統合失調症のような精神疾患だけでなく、アルコール依存症や薬物依存症、そして過食症や拒食症、さらには、著しい暴力傾向さえも、脳の正しい位置に電極をセットして刺激すれば治療が可能になってきているらしい。
 脳の特定の箇所に電流を流すことにより人格を変えることさえできるというのは、驚くべきことだ。そのようなことはすべきでないと思われるかもしれない。しかし、たとえば、サイコパスの治療に使えるとしたらどうだろう。このような「治療法」がつきつける倫理的問題はきわめて大きい。
 メイバーグによると、鬱病患者のある脳領域に電極を刺して刺激を与えると、春が来た感じがするという。しかし、電気を切ると、その感覚がなくなってしまう。自分の意思や周囲の状況とは関係なく気分が変わるというのは、いったいどんな感じがするのだろう。
 また、メイバーグのライバルは、快感を起こさせる電気刺激により鬱病を治療しようという方法をとっている。快感をあげるのなら、鬱病でなくとも希望する人が出てくるかもしれない。ある種の心理的ドーピングではないか。はたして、そういったことが許されるのか。
 しかし、である。ちょっとやってみたくなったりしないだろうか。今はまだ脳に電極をささないとダメなのでハードルが高い。だが、ヘルメットみたいなものをかぶって、経皮的な電気刺激によってできるとなったらどうだろう。仕事する気せんなぁ、という日にはちょちょっと刺激してがんばるとか。ひょっとしてカツラみたいな刺激装置ができたら、イヤな人と会う時でも快楽中枢を刺激してにこやかに対応できるようになるかもしれないし。
 冗談はさておき、もっとすごいのは、軍事応用に向けた新技術の開発・研究をおこなう機関であるDARPA(米国国防高等研究計画局)による「精神への月ロケット打ち上げ」プロジェクトだ。「親切だけどクレージー、金持ちのDARPAおじさん」の支援をうけて開発中のDBS「電子スーパーエゴ」装置を使うと、衝動性を弱めたり、認知の柔軟性を高めたり、感情制御能力を向上させることができる。逆向きに使えば「より攻撃的で冷酷な兵士」を作り出せそうだということは容易に想像できる。さすがに恐ろしすぎはしまいか。
 『サピエンス全史』が大ベストセラーとなったユヴァル・ノア・ハラリは、その次作『ホモ・デウス—テクノロジーとサピエンスの未来』で、ホモ・サピエンスは、不死、幸福、神性の獲得を目指すだろうと論じている。中でも重要なのは、タイトルである「ホモ・デウス=神のヒト」が意味するところでもある神性の獲得だ。意のままに誰かの行動や意識を操るのは、「神性の獲得」への大きな一歩ではないか。はたして、サピエンスはそれを望んでいるのか、また、行うことが許されるのか。我々は今、大きな分岐路に立たされているのかもしれない。
 さて、ヒースに戻ろう。たとえ倒錯的で狂気の沙汰の人体実験であったとしても、デモなどで批判されたとしても、DBSがこれだけ隆盛を極めつつあるのだから、その先駆者として記憶されていても不思議はない。にもかかわらず、いまではその業績を知る人はほとんどいない。いったい何があったのか。その語られざる真実は、ヒースの弟子のひとりが書いた実話小説に残されていた。そんな話が本当にありえるのかという驚きのストーリーなのだが、その内容は読んでのお楽しみ。

 この本、ヒースの先駆的な業績、DBSの現状と将来、そして、ヒースが失脚するに至ったスキャンダルと、どれをとっても素晴らしく面白い物語が三つ巴になっている。さらには、人間とはなにか、精神を操るとはどういうことか、そして、その倫理的問題は、など、いろいろなことを考えさせてくれる。ミステリーのような科学ノンフィクション。言うまでもない、読まねば損な一冊だ。

ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
出版社:中央公論新社
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