反体制はカネになる。ん、どういうことだ?、違和感があると同時に居心地が悪い。だって、反体制の人たちはおカネよりも大切なもの、例えば、自然とか文化とか、コミュニティとか、スタイルとか色々とあるから。儲かることや経済とは一線を画して、独自路線を進んでいるのであって、おカネや儲かるという言葉とは縁遠いはずだ。
だけど、読み終えると、そんなやわな考えは吹き飛んでしまう。反体制が儲かることに納得せざるをえない。オーガニック食品、カウンターカルチャー、スローフード、反グローバリズムなどのオルタナティブな活動がどのように経済的に成立しているのか、豊かな生活を発信することを可能にしているのか、その舞台裏を覗きにいくようなものだ。喉の奥に長年刺さっていた魚の小骨がぽろっととれたような、すっきりとした読後感がある。
なぜ反体制とカネがつながるのか、スケートボートを事例に筋道を踏んでいく。2021年の東京オリンピックでも正式種目に採用され、10代の日本人選手が大活躍した。解説者の実況が話題になり、「ゴン攻め/ビッタビタ」は流行語大賞トップ10に入り、認知度、人気度ともに高まった。
歴史を遡って、スケートボードが最初に流行したのは1970年代だった。その頃、多くの町や年で歩道や中庭やショッピングセンターでスケートボードを禁止する条例が通過するところだった。そのようにして、スケートボードを街中でやることに反逆性が与えれ、警官や警備員が取り締まるようになった。実はこれがスケートボードの流行の起点となった。
2000年には、スケートボードの馬鹿をやるカルチャーを発信するテレビ番組がMTVで企画され、放映された。ジャッカス(jackass)である。一部でカルト的な人気を誇った程度ではおさまらず、2002年には映画化され、8,000万ドル近い興行収入があった。製作費はたったの500万ドルである(参考までに、Wikipediaによると、4億ドル弱かけたと言われる「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」は10億ドルの興行収入だった)。
そして、アメリカでは2001年1月から2002年6月までの18ヶ月間に1000カ所以上のスケートパークが建造された。この規模の事業は体制に中指をたてて、反逆しているだけでは絶対に成立しない。ビジネスであり、大衆から生じたニーズへの対応だった。シューズメーカーのVANZは2018年時点で年商30億ドルを超え、スケートボードとともにちゃっかりと成長している。
スケートボード文化を支えていたコアな人たちからすれば、メジャーに取り込まれてしまった、もう自分たちに居場所はない、ということになるだろう。さらに、オリンピック種目になり、競技が進化するに従い曲芸化したと揶揄するだろう。さらに子供の頃からトレーニングされたアスリート的スケートボーダーが登場し、遊び感覚から体育会系スポーツになっていくだろう。その頃にはコアな人たちは主流を離れ、違う領域を見出し、新しく生まれる反逆的ななにかが、次の商売の種になっていく。
反体制が儲かるカラクリはシンプルで、「差異」を求める我々の欲求にある。消費社会批判や大衆文化批判では、消費者は浅はかな物質主義の価値観に支配され、群れのように行動し、組織の歯車であり、愚かな順応の犠牲者で、中身のない空疎な人生を送ると設定される。
ただ、そんなことを言われて誰も大衆社会の一員になりたいと思わない。むしろ人びとは自分は順応の犠牲者ではないと、単なる組織の歯車ではないと証明しようと必死になり、差異を求める。そこにタイミングよく登場したのがカウンターカルチャーだったのだ。主流社会の規範を拒絶し、大きな差異を生み出す源泉となった。
AppleのThink Differentだって、IBMに対する反逆だし、スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学のスピーチでもWindowsはパクリだと貶している。そういった商品を消費することで、「オレはお前と違う」と自分の優越性を再確認し、自分は大衆なんかじゃないと安心できたのだ。
反逆を取り込み、加速した差異を求める競争は公的な分野にも入り込んでいった。例えば、学校では同じ制服を着ることが個性がなく愚かだとされ、制服は廃止されていった。しかし、その結果、ファッションで差別化をしようと競争が激化し、消費主義が蔓延し、差別やいじめの原因にもなった。
90年代、クリントン政権の頃には、学校制服が見直されてはじめた。制服は個性を排除しないが、個性を表現する範囲(例えば、ネクタイの結び方、スカートの裾上げ、靴下のワンポイント、カバンや腕時計など)を限定することができる点で効果的だった。差異を出そうとする競争を止めることは難しい。しかし、軍拡競争に歯止めをかけた軍縮協定や核兵器不拡散条約のように、有効なルールや政策を作るのがよいのではないか、と著者らは提案する。詳しい議論や理論は本書や著者の別の書籍に譲り、まとめに入りたい。
本書のハードカバー版の表紙には、かの有名なチェ・ゲバラのアイコンがあった。
自分たちのための本だと誤読し、普段はこの手の本を読まない人が手に取った可能性も多いはずだ。そして、表紙のイメージからは想像できないことばかりが書かれていることに驚くはずだ。
差異を求めることはやめられない。現代では消費によって差異を生み出そうとする。消費社会や物質主義に反逆して生まれたはずのブランドやカルチャーが、新たな差異を生むインキュベーターの役割を図らずとも果たしている。これからは、街で規則を破っている人を見かけたら、避難の目を浴びせるのではなく、マーケティングの可能性を探したほうがいい。
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