1873年から1879年、中国の田舎でキリスト教を広げる活動をしたアデル・M・フィールドというアメリカ人女性がいた。本書は、アデルが宣教先の中国人女性たちの人生を聞き取ったものだ。
日本だと明治7年、徴兵令がはじまった年、この頃の中国人女性の人生と暮らしはどのようなものだったろうか。
庶民の人生を伝える書物はどの国でも少ない。日本でももちろんそうだ。私たちが読めるのは、権力を持つ人たちの記録が中心で、庶民の生活史がわかるものは貴重だ。その上この本は、本人たちが語った素朴なものをそのまま収集しているから、まるで友達の話のようにありありと聞ける。
本書には、15人ほどの女性が登場する。淡々と語られる人生は、とにかく不幸だ。日記のように普通に語られる内容に、当時の女性のおかれていた、信じられないくらい差別的な生活が人生だったことに気が滅入ってくる。
不幸の原因は、まず、すべての基本が「家」だということ。家を存続させようとして妻や子供の売り買いが日常茶飯事になっている。かといって、男も男で安穏とできない過酷な暮らしだ(でも男が恵まれているのは間違いないけど)。男は大体アヘンか賭博かにハマり、出稼ぎに行ったまま戻らないか、出稼ぎとは関係なく出て行って戻ってこないかだ。とにかく家の存続を優先させるとその中の人がないがしろになる。
そして、人の命もめちゃくちゃ軽い。
赤ん坊の口減らしは普通で、14歳くらいで嫁に行く女の子の自殺(「お嫁に行った先のお姑さんの召使い」という考え方だから、性格の悪いお姑さんだったら死んだほうがマシとなるので)も普通。それらが普通すぎて、殺す人も自殺する人もそれを見ている人もみんな気にしていない。人権という概念がないってこういうことなのか、と「この時代の精神構造はこんなだったんだ」とまさしく心の大冒険をしているかのようでドキドキしながら読み進める。
特筆すべきは纏足だ。
金持ちは6歳か7歳の時、貧乏人は13か14で娘の足を縛る。(中略)縛る道具には丈夫でしなやかな、長い布切れだけを使う。足を奇形にする包帯は、小さな機織り機で織ったもので、幅5センチメートル、長さ3メートルほどだ。(中略)
縛っているうちによく肉が腐り、一部が足の裏から剥がれてしまう。ときには、足指一本かそれ以上が脱落してしまう。この場合、この上なく足が小さくなり、何ヶ月か苦しむ代償として、優美さを手に入れることができる。痛みは普通一年ほど続いたあと、しだいに減っていき、二年目の終わりには足が死んで痛みを感じなくなる。
もちろん纏足をしたら、膝から下は骨と皮なので歩けなくなる。歩くときは子供の肩を借りるか、支えてもらう人が必要になる。このように、纏足では物理的に女性の体が拘束される。
「纏足をしないなんてみっともなく、笑われて軽蔑されるので、したくない人はおらず、美しい足はどんな犠牲を払ってもなりたい」、みんなが憧れるものだったらしい。慣習になるということは、このようにとても恐ろしい。
読む進めていくうちに、人々の不幸の原因は、その社会の慣習も生み出すものだと気づく。
纏足だけでなく、たとえば神様だ。
家の神様を奉るための習慣が多すぎて、貧しい人は神様や悪霊に払うお金がないから、いつも不安で怖がっている。子供が生まれない夫婦がなけなしの土地を売り払い、そのあと子供が生まれても、そのお礼を神様へ払うためにその子を売り払わなければならなくなったりする。
現代の目で見たらバカバカしいことでも、その時代に生きた人は、「空気」には勝てない。しかも、現代と地続きなことも感じられる。「家」と「神」が中心にあった時代の空気とはこういうものだったのだろうか。
本書は、中国人女性でキリスト教徒のなった人の身の上話なので、基本は「土着の神様に奉仕した挙句、ずっと不幸だったことにむかついてキリスト教に転向」というのが一番多いパターンだが、さもありなん、と思えてくる。ただ、キリスト教側もこういった女性を宣教師として安い値段で働かせるという構造で、ほんといろいろ恐ろしい。
ただ、不幸と不思議は隣り合わせである。死んだあと生き返った女性の奇跡の話や、魔物が取り憑いて去ったあと人気霊媒師になったお母さんの話など、この本で読むとさもありなんという生々しくておもしろい話もつぎつぎに出てくる。
たった150年前、しかし全然違う異世界の、中国人の女性の人生を垣間見ることができる、なかなか読めない本である。