本書は洞窟ダイバーで水中探検家、作家、写真家、映画監督であるジル・ハイナースの生涯を描いた一冊である。
1965年、カナダのトロントで生まれたジルは、幼少期から探検が好きだったという。彼女の記憶に鮮烈に残るのは、家族旅行で出かけたコテージでのできごとだ。二歳だった彼女は、コテージ前の桟橋から足を滑らせ、湖に落ちてしまう。水中に落ちたジルは、本能的に呼吸を止めて、そして湖に浮かんでいたそうだ。目の前にある透明な美しい世界。魅惑的な色。緩やかな波の動きが彼女に永遠に消えない記憶を残した。しかし、その世界は突然絶たれることになる。大慌てで助けに来た母に抱きかかえられ、水中から助け出されたのだ。
その後もジルは、水に対する恐怖心を抱くことなく成長していった。通っていたスイミングのクラスでは、泳ぐことよりも水中を見つめること、潜ることに興味を抱いていた。誰よりも水が好きだったのに、スイミングのインストラクターからは、水泳に向いていないと指摘されてしまう。その理由は、常に顔を水につけているからで、インストラクターはジルに体を起こす力がないと考えたのだ。しかし実のところジルは、顔を水面につけてプールの床のタイルや濾過フィルターを見つめていたのだ。そのエピソードが、なんとも彼女らしい。
大柄で運動神経が良く、学業成績も優秀だったが、目立つ存在だっただけに、クラスメイトからのいじめを経験することになる。「大きな女の子」として認識されていたジルは、幼い頃すでに、周りの目を極端に気にする子どもに育っていた。スイミングのクラスでは、裸を見られないように服を着たまま、まるで小鳥が卵の殻を破るように体をねじって水着に着替えていたらしい。これが後の、完全な男社会である探検家生活で役に立ったというのは興味深いし、面白い。これ以外でもジルには苦手なことが多くあった。特にジルを悩ませたのは、女の子たちの輪に入ることだった。カジュアルなおしゃべりが苦手だった。どこに行ってもいじめられるようになったジルは、次第に外の世界へと興味を広げていった。
そんなジルに対して両親は、自由に探索をする環境と自由を与えた。仲のよかった近所の子どもと森に探検に行き、怪我をして戻っても何も言わなかった。女の子らしい遊びはまったくせず、祖父がコレクションしていたナショナルジオグラフィック誌のバックナンバーをうっとりと眺め、冒険家や宇宙飛行士に憧れた。週末になると父と一緒に旅に出て、キャンプをした。赤ワインにつけたステーキ肉を焼き、自然のなかでゆっくりと過ごすことが何より好きだった。クラスの子たちとの間に越えられない壁のようなものがあると気づいたジルは、ますます、学校の外の世界へと飛びだすことを考えるようになる。本書でジルはこれについて、「アウトドアでの冒険が、社会的なプレッシャーからの逃避と、周囲と自分との違いを模索する機会となってくれた」と記している。
精神的な成熟が早かったジルは、17歳で家を出る。家族との関係は良好だったが、大勢の生徒とともに学ぶ高校生活に居心地の良さを感じられなかった。自分の体を好きになれず、おしゃべりが苦痛だったとも振り返る。逞しく強靱な肉体を、自分が好むファッションを、他の生徒たちから揶揄されていることも知っていた。だからジルは、一歩踏み出す決意をし、年上の友人のグラフィック・デザイナーとの同居を決意して、クラスメイトよりも早めに社会に飛び出したのだ。
しかし、10代になって、幼少期に抱いていた強い冒険心は徐々に消えていった。ヨーク大学に進み美術とデザインを専攻し、成績も優秀で順風満帆の人生を送っていた彼女の生活に、冒険が入り込む余地はなくなっていたのだ。大学生らしい、新しい生活を楽しむことができていたジルだったが、その後の人生を大きく変えることになる忘れられない事件が起きる。クラスメイト数人と家をシェアすることになり、トロントのローレンス・ハイツの外れにアパートを見つける。決して安全な地域ではなかったが、若いジルにはそれが大きな問題にも思えなかった。誰よりも早く引っ越しを済ませたジルは、寝室で一人、眠りにつく。しかし、彼女の耳に誰かがアパートに侵入してきたことを示す足音が聞こえてくる。その足音は、徐々に自分のいる寝室に近づいてきた。それが強盗だと本能的にわかっていた。ドアの隙間から見える男の足の影。ジルは机の上に置いていたナイフを握りしめ、強盗に対峙しなければならなかった。
命からがら難を逃れたジルだったが、心に大きな傷を残すことになるこの事件は、この先長い間ジルにトラウマを与え、彼女を悩ませることになる。しかし、自信を失い、何もかも諦めるようになったジルに対して友人が言ったひとことがきっかけで、自分の人生を仕切り直すことを決意する。彼女は、自分が生き延びるために必要なスキルを学び続けること、そして強い意志と楽観を抱きつつ、苦難に立ち向かい続けることを誓った。もう決して恐怖に屈することなく、戦うと決めたのだ。
優秀な成績で大学を卒業したジルは、両親や友人達に認められるために社会的な安定を求め、仕事に明け暮れた。グラフィック・デザイナーという仕事にやりがいと意義を見いだしていた。広告ビジネスの世界でも大きな成功を収めたジルは、誰の目から見ても成功者だった。きれいなアパートに住み、多くを手に入れることはできたものの、週に60から80時間も働き、プライベートな時間をも犠牲にし、友人や家族と会う機会も減っていく生活に疑問を抱き始めていた。それでも、周囲は自分を成功者と認めて、褒め称えてくれた。しかしジルのなかに、何かがくすぶりはじめたのはこの時期だった。20代後半になっていた。体はボロボロになり、疲れ果てているだけの生活に幸せを見いだせず、人生に大切な何かが欠けていると気づいたジルは、幼少期に感じた冒険に対する強い気持ちを思い起こす。
20代後半でグラフィック・デザイナーと広告ビジネスの世界から離れることを決意するジルに、周囲は疑問をぶつけた。なぜ成功している仕事を諦めるのか、なぜ普通の結婚をして、子どもを作って家族を築かないのかという重圧に苦しむ。そんな社会からのプレッシャーに悩まされたジルが再び出会ったのは、やはり水の世界だった。子どもの頃から興味を抱かずにはいられなかったその場所に戻ることで、ジルは自分を取り戻すことができたような気がした。しかし今回彼女が戻ったのは、ただの水の世界ではない。オーバーヘッド環境と呼ばれる、水中に存在する洞窟の内部を潜るという究極の探検の世界だったのだ。
その究極の世界に足を踏み入れたジルを待っていたのは、運命的な出会いだった。洞窟ダイビングのインストラクターで、後に夫となるポール・ハイナースだった。ジルはポールの落ちついた大人の男性の雰囲気、水中を自在に泳ぐ彼の優雅な姿に強く惹かれ、恋に落ち、結婚する。彼のダイビングショップのビジネスを手伝いながら、彼が得意とする洞窟ダイビングの世界に、自分自身ものめり込んでいく。彼を心から愛し、洞窟ダイバーとしても尊敬するジル。彼と数々の冒険を体験したジルは、徐々に冒険家として独り立ちしていくようになる。ポールを通じて、洞窟ダイビング界の実力者の多くと知り合い、彼らから様々な技術を学び、洞窟ダイビングの究極の厳しさも叩き込まれる。洞窟ダイバーとしてスタートラインに立つことができたのは、ポールとの出会いがあったからだった。後に二人は、世界で初めて洞窟の3Dマップの作成を成功させたワカラ・プロジェクトのチームの一員となり、それまでまったく未知の世界とされていた水中洞窟の発見と探索に協力、また数々の命がけの冒険を経験する。
次にジルを待っていたのは、洞窟ダイビングという完全な男社会だった。女性として水中洞窟を専門とするダイバーになったジルは、様々な攻撃に晒されてしまう。仲間だと思っていたダイバーが自分を揶揄していたこと、インターネット上では、洞窟ダイビング界の有名人であるポール・ハイナースの妻だから認められているだけだと書かれたこともある。苛烈な誹謗中傷で傷つけられたジルは、自分がどんなに業績を上げたとしても、女性というだけでそれを認められない現実に愕然とする。それについてどれだけ不満を訴えても、夫のポールでさえ、ジルに普通の妻であることを求めるようになる。結局、自分の苦しい思いを聞いてくれるのは、洞窟ダイバーの妻たちだけであることに気づき、ジルは孤独を感じるのだった。
実績を上げ続けたジルだったが、命を落としかけたこともある。減圧症になってしまったのだ。最新の機器を使い、最も信頼できる相棒である夫のポールとともに潜っていたにもかかわらず、重症を負ってしまったジルは、命をも落としかねない状況に心の底から恐怖を感じる。医師からは、「二度とダイビングはしないように」とも宣告される。その治療の過程で、夫のポールとのさらなる心の距離まで感じることとなってしまう。ぎくしゃくした関係のまま、南極の巨大氷山の下を潜るという究極のチャレンジを経て、二人は別々の道を歩むことになる。
本書を読み始めた読者は、ジル・ハイナースの究極の挑戦に面食らってしまうだろう。なぜ命を懸けてまで、そこまでの危険に飛び込んで行くのか、まったく理解ができないはずだ。漆黒の闇に包まれた、体がようやく通るような狭い水中トンネルに、大きな酸素ボンベを担いで潜っていくなんて、尋常ではない。それも、深く冷たい深海の中の話だ。見たこともないような奇妙な生き物が静かに暮らす、真っ暗なトンネルを誰が進みたいと思うだろう。それがいくら美しいとはいえ、そこに身を投じることはできそうもない。しかし、本書を読み進むにつれて、彼女が綿密な計画を練り、数々の安全対策を施し、最新の技術を用いて究極の世界に飛び込んで行っていることが徐々にわかってくる。
彼女のストイックなトレーニング、計算されつくした動き、危険を察知した時の考え抜かれた対処法も理解できてくる。なにより、彼女の強靱な肉体と精神力が信頼できるものだと思えてくる。決して命知らずの無謀な冒険ではない。彼女はこの惑星を知りたいと、本気で思っているのだ。彼女は本気で、この惑星の貴重な水を守ろうとしているのだ。そこが理解できた途端、ジルの冒険が大きな意義のあるものだと気づく。
彼女が経験した、命を落としかけるエピソードは、読んでいて背筋が凍るほど恐ろしい。粘土が水中で舞い上がり、視界が全く無くなった状態で酸素ボンベの容量が減ってくるなんて、想像しただけで命が縮んでしまうようだ。減圧症になり、ビリビリとした痛みで体中を支配されていく恐怖も、正直なところ、絶対に経験はしたくない。命綱が切れるときの絶望。パニックに陥ったときの心拍。本書にはそんな危機一髪の状況が記されている。絶望した瞬間の人間の心に浮かぶのは、どんな景色なのだろう。真っ暗闇なのか、それとも光に満ちた世界なのだろうか。ジル自身は、自分が命を落とす場所は、まだ誰も見たことがない、この世で最も美しい場所だろう、と書いている。
ジルの物語から読み取ることができるのは、人間はとても強い生き物であると同時に、あっという間に命を落とす生き物であるということだ。究極のスポーツと言える洞窟ダイビングに挑むため、彼女が行うトレーニングは厳しいものだし、深海で安全に潜るために開発される技術は常に最先端のものだ。それをもってしても、経験豊富なプロのダイバーであっても、わずかな気の緩みで命を落とすのが洞窟ダイビングの世界。その世界で女性ダイバーの先駆けとして活躍してきたジルが見送った友人は多い。その無念の死のひとつひとつを彼女は心に刻みつけ、そして本書にも記している。
本書の魅力はその洞窟ダイビングの息を呑むようなスリリングな世界だけではない。ジルの大きく、広い心に触れることができるのも、大きな魅力のひとつだ。ジルはまっすぐに誰かを愛し、その愛を捨てきることなく抱き続ける人だ。仲間に対する強い気持ちを、敬意とともに持ち続けられる人だ。強靱な肉体に秘められた大いなる優しさ、思いやりが彼女の魅力だと言える。ほんのわずかな自然にも愛情を向けられる人で、広く深い世界を冒険しながら、庭の花を愛するような人なのだ。決して、エクストリームスポーツを愛する、究極の冒険好きの、無謀で大胆な人ではない。
裏切り、友人の死、愛する人との別れ、挫折、そして新たな出会い。多くを経験し、なおも冒険を続けるジルの人生はまさに波瀾万丈で、読んでいる者を飽きさせることはない。
彼女のSNSアカウントには、多くの写真が掲載されている。その写真に写るジルは、いつも素晴らしい笑顔を見せている。その瞳はまっすぐこちらを見つめている。こんなにも優しそうな女性が、命がけで究極の世界に飛び込み、そしてその世界を映像として残し、未体験の私たちに垣間見せてくれていることを、忘れずにいたいと思わせられる。彼女が撮影した映像は多くの媒体で観ることができるので、ジルが深海から私たちに届けてくれる世界を堪能してほしい。
日々の学びや訓練を怠ることなく、果敢に挑戦し続けてくれるからこそ見える景色がある。彼女は、地下洞窟はどこまでも続いていると書いている。私たちの足元のずっとずっと下に流れる水があるという。その洞窟を発見し続けることで、私たちにとって最も大事な水を守りたいと言っている。彼女が目撃している世界は、私たち読者が想像するものに比べて、とてつもなく広く、そして深いことがわかる。
2021年12月 村井理子