『人は2000連休を与えられるとどうなるのか』前代未聞の実験の果てに辿り着いた場所とは……?

2022年6月10日 印刷向け表示
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作者: 上田啓太
出版社: 河出書房新社
発売日: 2022/4/26
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連休。なんと甘美な響きだろう。

ラジオの番組作りの仕事は面白いのだが、ネックは休みがとりづらいことかもしれない。先日のゴールデンウィークも、「最大10連休」なんてニュースで伝えながらまるで他人事だった。10日なんて贅沢は言わない。3日間でいいから続けて休んでみたい。

わずか3連休でも羨ましく感じるくらいだから、2000連休なんて桁が違いすぎて想像することすら難しい。著者は6年間にも及ぶ休み(正確には2190連休)を体験した。そこにあったのは巨大な空白だったという。これほどの空白を与えられると、いったい人はどうなってしまうのか。

一見、軽めのサブカルエッセイのようだが、とんでもない。本書は世にも奇妙な人体実験の記録である。理系ということもあってか(京都大学工学部卒)、著者の言葉はきわめて精確で、曖昧な表現にとどまることがない。そうした解像度の高い言葉で、自身に生じた微細な変化が記録されている。その内容は驚くべきものだ。

本書は「人間とは何か」「世界とは何か」という本質的問いに対する考察が記された前代未聞のドキュメンタリーである。他の人が著者のような生活をたやすく真似できないという意味でも、唯一無二の体験記といっていい。

2000連休は、仕事を辞めたのをきっかけにはじまった。それまではチェーン系のカフェで働いていた。無職になり、週5日電車に乗って通勤する生活から解放されただけでなく、客に愛想笑いをする必要も、同僚との面倒な人間関係に煩わされることもなくなった。目の前には自由だけが広がっていた(このあたりはまだ想像がつく。連休への憧れは自由への憧れと同義である)。

仕事を辞めて2ヶ月ほど過ぎた頃、著者は京都の知人宅に転がり込んでいた。杉松という5歳年上の女性である。そこは平屋建ての古い民家で、もとは物置だった1畳半のスペースをあてがわれた。この小さな部屋で著者は大半の時間を過ごすことになる。

4ヶ月ほどたつと将来への不安を感じはじめた。連休が嬉しいのは、そこに終わりがあるからだということに気づく。家賃の半分を負担するために、雑誌に大喜利のネタを提供する仕事で小銭を稼ぐことにした。

10ヶ月が過ぎると、鬱々としてきた。やたら昔のことを思い出し、これまでの人生は何だったのかと考えはじめた。今の自分をなんとかしたいと思い、近所の図書館で読書をし、運動をして規則正しい生活をすることにした。日々の行動も記録しはじめた。やがてそれは分単位での行動記録にエスカレートし、そのログを分析するために簡易プログラムまで書いた。

次にネットをみる頻度を減らした。リアルな人間関係が極端に薄まった結果、ネット上の言葉とうまく距離がとれなくなり、ネットの悪意に飲み込まれそうになったためだ。やがて文字そのものを徹底して読まないことを実践してみた。2、3日で、頭の中が静かになった。いかに日々、食べた言葉を消化することに頭を使っていたか実感した。思考と呼ばれるものの大半は、じつは食べた言葉の消化で、食べる言葉の量を減らせば思考の量も減ることがわかった。

次は過去の記憶や人間関係のデータベースを作りはじめた。自分の人生を輪切りにし、それぞれの時期に体験したことを思い出していく。その中から強い感情を伴う記憶ついて書き出しはじめた。ところが、封印されていた記憶の蓋を開けるのは危険極まりない行為だった。両極端な感情が噴出して不安定になったのだ。前に鬱々としていたのは一種の安定状態だったことがわかった。そのうち記憶そのものと、記憶に付着した情念の違いが理解できるようになった。ネガティブな感情を書き出してしまうと、大掃除をした後の部屋のように、頭の中が澄み渡った。後に洗脳の手法のひとつに記憶の書き出しがあることを知った。

徐々にそれまで目を向けることのなかった自身の内側を見つめるようになっていく。1000日が過ぎると、自分のことを霧のように感じるようになった一方、身体の感覚が鋭くなった。著者の独り言に杉松が爆笑した時、急に恥ずかしくなった。恥というものが具体的な血液の反応として発生していることが実感できた。不用意に漏らした言葉が急に注目されたことで、自己の濃度が上がり、それに伴い血液が血管をすばやく走り、スッと顔に赤みがさしたのがわかった。こうした身体の反応にも極度に敏感になった。

鏡に向かって「おまえは誰だ?」と言い続けていると、最後は発狂するという都市伝説がある。それを試してみることにした。試行錯誤を繰り返し、あるやり方で鏡をみると、たしかに鏡に知らない人が映っていると感じた。鏡の中の知らない人間(自分)がフッと笑った瞬間にすさまじい恐怖をおぼえた。

怪談というのは恐怖を一箇所に閉じ込める仕組みではないかと著者は考える。そうすることで、世界のすべてが恐怖として全面化することを防いでいるのではないか。幽霊に怯えるのにも、実は安定した自己が必要だ。意識と肉体は当たり前のようにつながっていると誰もが思っている。だが、鏡に映る自分が知らない人間に思えた瞬間のように、その根拠がぐらつくと強い恐怖が生まれる。

当たり前のことが当たり前でなくなり、それまで気にならなかったことがおかしいと思えてきた。著者は未踏の領域へと踏み込んでいく。

1500日を過ぎると、身体が透明になったように感じるようになった。自己の濃度どころか、肉体の濃度が下がりはじめたのだ。直面したのは、意識と肉体の謎である。

世界のベースにあるのは無意味と虚無で、人間の使う言語では、それが反転しているのではないかと著者は言う。「無・意味」のように、まず意味があり、それが無になると人は考える。だから意味に満ちた世界に裂け目ができて、無意味が顔をのぞかせることを極度におそれるのだが、むしろ逆ではないか。この世界にはもともと無意味が充満していて、意味のほうが泡のように生まれては消えていくのではないか。

では意味とは何か。意味を生み出す装置は、自らの脳や内臓である。この肉体を維持し、この肉体を守り、この肉体を殖やすという圧力のようなものが根本にあり、その先に「お金を稼ぐ」「素敵な人と結婚する」といった社会的欲望が生まれる。だが根にあるものが弱まれば、これらの意味を伴う欲望も枯れていく。

著者は「私」という存在を疑いはじめる。「私」という言葉で当たり前のようにまとめられていたものを、徹底的に削ぎ落とし、追い詰めに追い詰め、それでも最後に残ったものを、著者は「知覚点」と名付ける。

「私の死」とは、おそらく知覚点の消滅である。「私の死」が知覚点の消滅に過ぎないのなら、「死」には特になんの意味もないということになる。すなわち、私たちがイメージしている「死」という言葉は壊れる……。

本書は、想像もつかない地点まで私たちを連れていってくれる。哲学の本質は「問い」にあるという。著者は2000日の間、さまざまな問いを重ねた。このユニークな一冊は、そうした哲学的な営みの記録としても読むことができるかもしれない。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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