『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』書けなくなった批評家を救ったもの

2023年5月7日 印刷向け表示
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ひさしぶりに会った知人の変貌ぶりにショックを受けることがある。本書を書店で見かけた時の驚きもそれに近い。表紙の男性と著者名が一瞬つながらず、本人だと気づいて衝撃を受けた。別人のように痩せている。それも何か大病を患ったことをうかがわせるような痩せ方ではないか。

90年代からゼロ年代を通じた福田和也の活躍ぶりは、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」という言葉がぴったりだった。「月300枚書く」と本人が言っていたように、文芸評論や時事評論、エッセイ、コラムを書きまくり、ワイドショーのレギュラーコメンテーターを務め、文芸誌『en-taxi』を編集し、母校である慶應大学の教壇にも立った。当時、夜の街でもしばしば著者を見かけた。バリバリ仕事をしつつ遊びもこなす姿が眩しかった。

著者を知ったのは学生時代のことだ。江藤淳に才能を見出されたというふれこみで、雑誌『諸君!』でいきなり連載が始まった。破格の扱いだった。時期は前後するが、当時は宮台真司や宮崎哲弥なども新しい論客として注目していて、彼らと同様に著者のこともフォローし始めた。

以来、主だった著作はほとんど読んでいる。ナチスに加担したフランスの作家たちを扱ったデビュー作『奇妙な廃墟』、耽美的な文章で書かれた評論集『甘美な人生』、本格的な文芸評論『日本人の目玉』、編者を務めた『江藤淳コレクション』などは今も書棚にある。

そういえば、2002年だったと思うが、番組にゲストで来てもらったことがある。立川談志師匠の番組で、後に週刊誌の連載で、本当は芸談がしたかったのに、ディレクターの指示で『総理の値打ち』について話すはめになって残念だったと書かれた(申し訳ないと言うしかないが、あの時はまさか落語にも造詣が深いとは思わなかったのだ)。

そんな破竹の勢いだった著者を、ある頃からぱたりと見かけなくなった。たまに新刊が出ても、かつてのようなキレはなかった。ある時、著者が家族を捨て、女性のもとに走ったという話を聞いた。ゴシップの類だろうと思っていたが、『福田和也コレクション1』の解説で、著者の親友である映画史家の伊藤彰彦氏がこの件に触れていて、本当の話だと知った。

もっとも、女性に入れあげた中年男性の話など珍しくも何ともない。だが事態はもっと深刻だった。

本書は『サンデー毎日』に2020年11月から2022年8月まで不定期連載された「コロナ禍の名店を訪ねる」をもとにしている。約1年半の連載のあいだ、著者は3回も救急搬送されたという。

福田和也といえば、小太りで、丸眼鏡の丸い顔が思い浮かぶ。一見、愛嬌のある風貌だが、書くものを読めば、内側に過剰なものを抱えた人であることがわかる。実際、暮らしぶりも度を超えたものだったようだ。

30代、40代は、大酒を飲み、フレンチやイタリアンを食べた後に、カツカレーを食べるようなことを平気でやっていた。この頃は、飲みかつ食らうことによる高揚をエネルギーに変え、それをもとに大量の原稿を書くという、いわば正の循環が成り立っていた。どんなに暴飲暴食をした後でも、ひとたび原稿に向かえば、これまでに読んだ本や、人と交わした会話、子供の頃の記憶などから、言葉がどんどんやってきて、それを交通整理するだけでよかったという。

だが今、その循環は完全に断たれている。長年の不摂生は心身に深刻なダメージをもたらし、80キロを超えていた体重が30キロ以上落ちたという。

村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で、「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなければならない」と述べている。文学は目を背けたくなるような人間の醜い部分も扱う。書き手に基礎体力がなければ負のパワーにやられてしまう。若い頃に肉体をないがしろにしてきた著者は、まさに今、肉体の報復を受けている状態にあるという。

「言葉はどこからもやって来ず、私は言葉を探し、追いかけている。探しても見つからず、追いかけてもつかまらず、原稿の量は激減した。ひどい時には、人と話をしていて言葉が出てこないことさえある」

ところが、食えなくなり、書けなくなったことで、逆に食うこと、書くことへの執着が増してきたという。世はコロナ禍。ならば、感染拡大で営業もままならない飲食店を実際に訪ねてみようとなった。蕎麦屋、おでん屋、居酒屋、割烹、バーなど、選ばれた18軒は、いずれも著者にとって取り換えのきかない大切な店である。

とんかつ好きを公言するだけあって、真っ先に向かうのは贔屓のとんかつ屋だ。カウンターに座り、ハムサラダをつまみに生ビールを飲みながら、ロースかつが揚がるのを待つ。以前はポークソテーで酒を飲んでからロースかつというコースだったが、もうそれはきついという。そんな弱音も飛び出すが、不思議なことに、食べ物の描写になると、著者の文章はかつてのような艶を取り戻す。

「二度揚げされ、しっかりと揚げ色のついたロースかつが供された。断面には卵の黄色が層になって現れている。揚げたてを口にすると、肉のうま味と卵の甘さ、衣の香ばしさが混然となって口中にひろがり、幸せな気持ちになった」

「まず、串かつが運ばれてきた。この店は長ネギを使っていて、運ばれてくるや、甘い香りに陶然となった。官能的なまでに柔らかいネギと、固い衣、しっかりした肉を口の中で噛んでいる快感は筆舌に尽くしがたい。燗酒とともに一気に食べた」

本書を読みながら、人生の最後に残るものは何だろうと考えた。

「保守とは、横丁の蕎麦屋を守ることだ」とは、福田恆存の言葉である。そこには、市井の人々の日常の営みこそが国を支えているという思いが込められている。この言葉に共感する著者は、長く客に愛される店こそが文化を担っているのだと述べる。だが、そうした大義名分はいわば表向きのもので、著者を衝き動かしているのは、ただ食べることへの執念であるように思える。

人生の最後に残るものは何か。今なら、本と酒だと答えるだろう。だが死を間近に感じる状況でも、果たしてその答えは変わらないだろうか。

小池真理子氏の『月夜の森の梟』は、最愛の「かたわれ」である藤田宜永氏との別れを綴った哀切極まりない一冊だが、この本でショックだったのは、病に侵された藤田氏が、「文学も哲学も思想も、もはや自分にとって無意味なものになった」とこぼしていたということだ。

本も読めず、酒も飲めないほど体力が衰えてしまった時、それでも生きることへ自分を向かわせるものがあるとすれば、それは何だろうか。もちろんその時になってみなければわからないが、窮地に陥った時に救いとなるのは、おそらくこれまでの人生で真剣に向き合ってきたもののうちの何かなのだろう。

あれだけ文学や思想を語ってきた福田和也をして、支えとなったのは通い慣れた店だったというのは意外である。だがそれでいいのかもしれない。カウンターで好きなものを口に運ぶ著者の姿は、このうえなく幸せそうに見える。

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