始まったばかりだと思っていた21世紀も、気がつけばすでに1/4が経過しようとしているが、われわれが未来の象徴のように思っていた「新世紀」は、9.11のテロで幕を開け、リーマンショック、3.11の未曾有の災害と続き、挙句の果ては新型コロナという感染症の流行と前世紀の冷戦の影を引きずるようなウクライナ戦争の勃発で先が見えない。
その一方でデジタル化やネット化が確実に進行し、スマホやSNSが広く社会に普及し続け、AIが将棋や囲碁で人間の世界チャンピオンを打ち負かし、ついには誰もが、絵を描いてくれたり、ChatGPTのようなどんな質問にも卒なく答えてくれたりするAIソフトを自由に使えるようになり、コンピューターの能力が人間の知力を上回るとされる「シンギュラリティー」がもうすぐ実現するという声も聞かれる。
多くの人にとって、こうした「デジタル」が象徴するイメージは、AIで仕事が奪われるという悲観論はあるものの、おおむねポジティブで希望を持てるものだろう。Web3やNFT、AIやVR、メタバースといった言葉が飛び交い、時代の最先端を象徴する理想はそうした言葉が可能にするコンピューターを駆使する新製品やサービス名で語られ、やっと国もデジタル庁なる役所を作って、社会全体を新しいテクノロジーの力で作り直そうと動き始めた。
しかしその一方でデジタルのパワーは国家規模を超え、サイバー攻撃が通常兵器の力を凌駕し、いまや世界経済を実質支配しているのは米国のGAFAのような巨大IT企業で、ロシアのプーチン大統領にケンカを売ってTwitter社を乗っ取って宇宙に飛び出そうとするイーロン・マスクのようなデジタル企業のトップが世界的に注目される時代になっている。
そうした中で、ネットやスマホを使えない人は、いまや公共サービスや最新のアプリを使えなくなり、不便な思いをするばかりか不利益を被り、社会から落ちこぼれてついには消えていくという図式も語られている。
こうした人々は一般には高齢者だと考えられているが、彼らを「アナログ人間」と呼ぶ差別的な言葉がある。当人たちも「私はアナログ人間で、パソコンはまるで使えないので」と当然のように主張して若者や専門家に助けを求め、「アナログ」という言葉はある意味「アナクロ」とも取れる時代遅れの象徴として、憚られる存在になりつつある。
そんな中で、アナログは「デジタルを使えない落ちこぼれ」ではなく、実は人間の知性の本質であり、「もうデジタル時代は終わり、次の社会はアナログが支配する」などと主張すると、昭和のアナログ人間が、不勉強を顧みずに社会を敵に回しているように聞こえるかもしれない。
デジタルは万能なのか
本書『アナロジア AIの次に来るもの』はこうした一見、時代錯誤のような提案を大胆にも正面から掲げた、まさにイコノクラスト(偶像破壊者)的な問題提起の書だ。
市場にはデジタルを喧伝する本が溢れ、アナログの話題といえば、若者がいままで聴いたこともなかった昔のアナログレコードやカセットテープを新鮮に感じているという、時代に逆らうレトロでノスタルジックな話題ばかりだ(たとえばデイビッド・サックス著『アナログの逆襲』)。アナログという言葉が出たとたんに、時代に取り残された老人の懐古趣味のイメージしか浮かんでこない、というのが世の風潮ではないか。
しかしデジタルはそんなに万能なものなのだろうか? 確かに一時代前までは人間以外にはできないと考えられていた高度な分野にコンピューターが進出し、これからは、あらゆるものがデジタル化されるという言説が各所で聞かれる。
ところでまず、「デジタルとは何か?」と問われると、1と0で表現される何かで、プログラミングしてアプリを作りネットでシェアするハイテク、という答えが社会一般の理解かもしれない。それは、現在のコンピューターは基本的に、ある電圧値を基準にその値を超えた情報がある状態を1、ない状態を0という二値論理で組み立てられているからだ。
デジタルとは、もともと指をさすラテン語の「digitus」から来ており、飛び飛び(離散的)な整数のように数えられる数の集合を表現するもので、現在の情報テクノロジーでは数字の種類が最小の1と0となる二進数が使われているに過ぎない。またアナログはその対義語として使われる、ギリシャ語で比例を意味する「アナロギア」(αναλογία)に由来する類似や相似を意味する言葉で、実数のような連続した量を指すのに使われる。
前世紀の中盤には「アナログ・コンピューター」という装置が使われた時期もあった。電気回路で演算論理(数式)をそのまま組み立て、計算の対象となるデータを入力電圧として読み込ませると、直ちに計算結果が電圧値として出力される装置である。使われる電圧はあらゆる値を取ることができるアナログなデータだが、読み取り装置の精度に結果が左右され、ノイズなどの外部要因の影響を受けやすく、特定の計算を瞬時に行えるものの汎用性に欠け、大まかな結果しか出せず、デジタル方式のコンピューターが登場すると消えて行った。
こうしたアナログ・コンピューターは、対象を抽象化したモデルや類似(アナログ)モデルを作り、それを使って事象や現象のシミュレーションを行って結果を出すものだが、実はこうした大げさな装置を使わなくても誰もが手にできるものなのだ。
まず一本の棒を取り出して、それを地面に垂直に立ててみよう。すると日が照っていれば影ができ、昼間にはその影が動いて行く。それは説明するまでもなく、誰もが知っている日時計のことだ。それがアナログ・コンピューター?
この棒は、太陽と地球の相対的な位置関係を太陽光の影という形で示し、その位置は時間に従って移動していく。その影の指す位置に時刻を刻んで行けば現在の時間が分かるし、この時計には電池も数学もデジタルも特別なテクノロジーも必要ない。
デジタル時計や原子時計まで駆使する現代人は、日時計は日が差していなければ使えない、太陽と地球の位置関係の季節変動を修正しないといけないし、大まかな目安にしか使えなくて不正確でいいかげんな大昔のローテクだと考えるだろう。
しかし、そもそもデジタル時計は正確なのだろうか? その中には発信装置があって電気で駆動され、行っていることは数を数えているだけだ。それを積算して1秒が60に達したら1分。1分が60揃えば一時間という数を示している。もっと細かい正確な時間が知りたければ、発信装置をもっと高速に駆動して刻みを細かくして行けばいい。しかしその速度にも限界がある。時間が連続であるとしたら、刻みと刻みの間にある無限に続く本当に正確な時刻を理論的には出すことはできない。
一方、日時計の指す時刻はある意味、真に正確なアナログな時刻だ。影の位置を測る精度の限界があるとしても、それは実用上測れないだけで、いくらでも無限に精度を上げることが理論上は可能で、おまけにそれは連続した自然の時間そのものなのだ。
次に挙げるアナログ・コンピューターは、(本書でも取り上げられているが)空間を計測するための一本のひも。例えば道路があったとして、その中央分離帯を作るために中間点を決めるとする。普通は何らかの方法で道路の幅を計測して、それを半分に割った長さを求めればいいはずだ。道幅が6mだったとすれば3mがその位置であると明々白々の回答を出せる。しかし、それが2πmだったとしよう(πは円周率で、3.141592……と循環せず無限に続く無理数)。半分はπmだが、どうやってその目盛りを付ければいいのか? デジタル方式でどんなに精度を上げても、本当の理論的中間地点はいくら桁を追っても正しい値は出ない。
しかし道の端から端まで、一本のひもを延ばして、その後にひもを半分に折り、折れ目の位置に印を付けたらどうだろう。それはある意味、完全に正確な中点となる。ひもを両端に合わせる 精度や、ひもを二つ折りする誤差など、不正確極まりない要素がいくつもあるものの、このひもを抽象的な直線のメタファーと考えるなら、線を二等分する手法を使えば、概念的には中点は本当の真ん中になる。
時間や距離を測る単機能な道具をコンピューターと表現することには違和感があるかもしれないが、これらはある論理を正確に実行し、数えることなく目的を達している「広い意味での計算」を行う計算機=コンピューターと考えるべきだろう。
算術と幾何学の葛藤
しかし、こうしたデジタルとアナログの計算は、本当は何が違うのだろうか? これは概念的に言えば、一次元的で数を数えることを基本にした算術的な論理のデジタル式と、視覚的で二次元的な類似や比例を使う幾何学的なアナログ式の違いで、一方は整数という概念の数を数えることの限界があり、一方は幾何学的な数を使わない方法として、計算としては意識されてこなかった。
われわれが現在使っているデジタル式のコンピューターは、プログラム(アルゴリズム)を書けば、どんな事でもできる魔法の機械のように思える。たしかに、自然や社会の様々な事象を数値化しデータとして扱い、その原理を定式化して高速に処理すれば何でもできる。しかし、アルゴリズム化できないもの、つまりプログラムとして書けないものはどうするのか? そもそも、そんなものは存在するのか?
古代から知られている有名なピタゴラスの定理は誰もが知っているだろう。直角三角形の斜辺の長さの二乗は、直角に交わる他の二辺の長さをそれぞれ二乗して足したものに等しいというもので、この不思議な現象が正しい事を幾何学的に証明する方法はいくつも知られている。そしてコンピューターでこの数式をコードに書けば、すぐさま未知の辺の長さを計算して算出することできる。
しかしデジタル方式のコンピューターにはこの定理を発見することや、証明することはできるのか? まずコンピューターはそうした問題意識自体を持たないだろう(人間の思考過程を真似て、問題意識というもの自体をプログラミングすることが不可能とは言い切れない。生物の遺伝や進化を模倣し、定式化したアルゴリズム自体を自ら再帰的に書き換える手法を使って、プログラム自体をランダムに変化させて、元々それが意図していた処理を超えた最適化や発見を促す遺 伝的アルゴリズムのような手法がないわけではなく、現象のデータを大量に読ませてディープラーニングを繰り返して、ケプラーの法則や熱力学の保存則を導いたという事例もあると聞くが、それは真の発見というより、人間の発想を追認しただけだ。コンピューター自体は少なくとも、新しい発見をしたいという意思は持たないだろう。心や意識を持つ完全なAIが実現できると主張する人もいるが、まだ結論は出ていない)。
われわれ人間は、自ら発明した道具やテクノロジーより劣っており、移動能力で足はいくらがんばっても車には勝てないし、計算能力や情報検索などでははるかにコンピューターに劣る。しかしこれらのテクノロジーで何をするかは人間が決めたもので、それを概念化して手順を論理化して動かしているだけだ。コンピューターの場合は電子回路で論理演算する高速なマシンであるというだけで、人間もそれよりはるかに長い時間をかければ、原理的に解けないものはない。それに、まだ問題として意識されていない問題、つまり何をプログラミングするかをコンピューターに委ねるところまでは行っていない。
人間の生活は、個別の部分ではコンピューターや他の道具に劣っているが、われわれの生活のほとんどは計算しなくてもできることばかりだ。何時に起き、何を食べて、何を着て、どこに行くかを気分で決めるなど、基本的にいちいちコンピューターを使う必要などない。
ところが万能に思えるコンピューターは、小さな虫が食料を探し敵から身を隠し、子孫を残していくという単純と思えることを、ロボットなどを使って実行しようとしても、とてつもないプログラミング量やムダなエネルギーを使わないと真似できず、現在は両者のギャップである「不気味の谷」は越えられていない。
人間の子どもがある歳になってイヌとネコを見て区別できるようになる、というような当たり前と思われることも、やっと最近、AIとディープラーニングを使ってできるようになったばかりだ(特別の専門家しかわからないようなレントゲン画像から患部を探し出したりできるように、画像認識能力はどんどん人間を超えて進化を遂げているが)。
画像解析やチャットの上手なAIソフトも、人間なら誰もが感じることのできる錯覚や皮肉やジョークを理解できず、それをまがりなりにも行わせようとすれば、とてつもないムダな努力が必要になる。言葉の辞書的意味を解析して利用するチャットソフトは、一見まともな答えを返してくるが、どこか内容は心許なく、振り込め詐欺のような危うさを感じるし、誰もその受け答えを人間の言説と同じ程度に信用できるとは思ってはいないだろう。
自然はアナログ
脳や神経系はデジタル素子でできているのではなく、プログラミングをしているわけでもなく、ニューロンがただ複雑に絡み合って、外界からの刺激でお互いのコミュニケーションのパターンを変化させて、不測の状況に対しても適合しようとしているだけだ。ところが不正確で遅いという欠点はあっても、これだけ万能で消費エネルギーも少ない合理的なシステムは人工物の中にはいまだ存在しない。
最近のディープラーニングで使われているのは、こうしたニューロンの結びつきをデジタル的に模倣したニューラルネットワークのモデルで、大量のデータを読ませて訓練して、ノード間の結びつきを調整すると、なぜかは明確に因果性を説明できないものの、いろいろなパターンを分類できるようになるもので、まさにアナログ・コンピューティングだ。
こうした明確に言語化できなく、プログラムが書けない対象に対する応用は、現在の一次元的な言語論理を扱うデジタルのコンピューターは不得意で、計算量が莫大になるため実用的な時間内に回答が得られなかった。
ところが今世紀に入って画像処理のための並列処理チップが開発されることで、二次元的な並行処理が可能になり、急速に実用化が進んだ。内部の処理はデータをデジタル化して現在のデジタル・コンピューターでシミュレーションしているものの、全体のオペレーションはアナログだ。こうした方式を専門に扱えるよう、従来のデジタル・コンピューター(ノイマン型)ではない、もともとニューラルネットの形をしたニューロモーフィックチップも作られている。
こうしたアナログな使い方は、本書でも指摘されているように、デジタル・コンピューターを大量に相互接続したインターネット全体の動きの中にも表れている。個々の現場のデータの処理はデジタルだが、(上位レイヤーとしての)インターネット総体の動きは、利用者や情報同士の結びつき、つまりソーシャルグラフに代表される相互バランスで決まっていく。またVRやメタバースの基本はデジタルで構築されているが、そこで行われる会話は、言葉で説明できない感情や経験を伝えるアナログな機能だ。株価予測や天気予報なども大規模で複雑なネットワークが全体の動向を統計的に決めていくが、それもアナログ・コンピューティングだ。
生物も最小単位の情報がDNAというデジタル的なコードで記述されるが(遺伝子型)、それが大量に組み合わされて細胞や器官になった個体同士の関係はアナログ的で非決定的だ(表現型)。つまりこの世のすべてのものは、ミクロなレベルでは言語的・デジタルで、マクロなレベルでは非言語的・アナログな存在なのだ。
1と0の離散的な論理がデジタルで、その他すべてが単にアナログだと考え区別するだけでは、こうした問題の本質を理解することはできず、もっと大きな構図の中に両者を捉え直す必要があるだろう。
言語の限界と高次元の知
人類の学問体系の基礎とも言える、古代ギリシャのリベラル・アーツ(奴隷でない自由人の教養)は、「自由七科」とも呼ばれる七つの学から形成されている(最近の大学ではリベラル・アーツの必要性が唱えられているが、学の枠組みの原点としては認識されておらず、いまだに理系の大学での補習的な一般教養の扱いを超えているとは思えない)。最初の三科(トリウィム)は文法学、論理学、修辞学という言語活動の基本で、さらにその上に四科(クワドリウィウム)を構成するのは、算術、幾何学、天文学、音楽だ。
算術は数を数えることであり、一次元的に前後の順番で命名された数を扱うものだが、言語で文章を扱う論理と同じであり、まさに現在のプログラミング言語で書かれたアルゴリズム表現そのものの世界だ。幾何学はもともと、氾濫したナイル川の周辺の土地を仕切り直すために図形的知識を駆使したことから始まり、ユークリッドが体系化したとされるが、土地の広さや大小の分類や分配などを決めるために、図形の相似や案分をするための知で、われわれが日常使っている二次元的な知だ。天文学は太陽系や銀河系などの三次元的な存在の相互関係を扱い、音楽はさらに時間概念を加えた四次元的世界を扱う。ピタゴラスは星の並びや動きがある一定の比で表現でき、それらの構成を音楽の和音になぞらえて「天球の音楽」と呼んだが、ここで言う音楽は楽曲というより世界表現の調和を指す。
そう考えるなら、現在のコンピューターは三科を元に四科の最初の算術をクリアした一次元的ツールでしかない。われわれが言語化できる現象を効率よくこなすことはできるが、いつかその限界も見えてくるだろう。まだ定式化されていない広い意味での社会や自然を扱うには、幾何学的な二次元の知や、さらには三次元、四次元へと、暗黙知や職人の技とされているものや、心や魂や宇宙の高次元な存在に潜む謎に挑んでいくしかないだろう。
人類が最初の三科に行き着いたのは、石器を使うようになってから300万年ほどして、5万年ほど前に音声言語を発明し、さらに3000年ほど前にアルファベットのような文字に記録してからだ。言語は数を数えることから始まったという説もあり、自然に対して無定形なアナログな対応をしていた動物的な人類に、何かを特定しそれ以外と分別する能力を与え、自然を命名することで数える(整理する)能力を与えた。
さらに音声言語を文字に写して対象化・客観化することで、自分の心の動きを外化して他者に伝えて知識として共有できるようにした。生活や社会の様々な事物を言語化し文字に書いて整理することで、それまで曖昧にしか認識できなかったことが明確になり、古代ギリシャ人はすべてを言語化して記録・表現することに魔術的な喜びを覚えたとも言われる。
中世には社会の規則を論理的に表記して法律化したり、アラビア数字を輸入して金銭を正確に数えて記述したりすることで、より大きな規模で社会生活が営めるようになり、さらには基本的には手書きでしか伝えられなかった多くの事象を、15世紀半ばにグーテンベルクが活版印刷で大量に生産・流通できるようにしたことで、書籍が流通して学問が体系化された。
その成果は、直後の15世紀末にコロンブスが正確な地図とマニュアル本を使ってアメリカ大陸を発見したことで発揮され、16世紀になるとルターがドイツ語で大量に流通した聖書を元に宗教改革を引き起こした。それからすぐにコペルニクスが地動説を唱え、ルネッサンスが17世紀の科学革命へと道を開き、ニュートンやガリレイ、ケプラー、またベーコンやホッブズ、デカルトやパスカルなどが生きた、ホワイトヘッドの言うところの「天才の世紀」の真っただ中で生まれたのが、現在のドイツのライプツィヒ出身のゴットフリート・ライプニッツ(1646~1716年)だった。
書き言葉を精緻化して体系化する作業は、人類に言葉の持つ大きな力を実感させ、すでに13世紀にラモン・リュイ(ルルス)が「大いなる術」(アルス・マグナ)としての普遍的な学問を目指し、ユダヤ教の神智学としてのカバラを駆使したが、この技法としての生命の樹(セフィロト)では神の属性を体系化した図も使われ、数に意味を持たせていろいろな現象を説明する数秘学が神秘的な魔術として流行した。
その後の16世紀には記憶術への反発から、ラムスが行ったように概念表示を二次元のチャートを使って体系化してフローチャートのように扱い、いろいろな主題を弁証法的序列に図示する技法により普遍的な知を追求する流れもあり、17世紀にはキルヒャーなどによる学の普遍化を 目指す流れが続き、まさに言語の持つ力を体系化して知の力を自動化するプログラミング的な論議がされていた。そしてこれらを復活させ洗練したのがライプニッツだとされる。
ライプニッツの普遍数学
ライプニッツはルネッサンスからバロックの時代に花開いた万能の知識人で、哲学や数学、科学、政治にも広く関わり、同時代のルイ14世やピョートル大帝やスピノザとも広く交流があり、科学革命の結果できた各国のアカデミアの創設に関わるなど幅広い活動をしたことが知られている。そしてデカルトの精神と物質の二元論を超えた、宇宙の普遍的な基底単位とも考えられる、「モナド」(単子)による予定調和説を唱え、数学を元に「学の学」としての普遍数学を打ち立てようとした。
基本的概念を数学の演算記号のように表現した「思考のアルファベット」を用い、素数で表示したいろいろな概念が組み合わさった事象をそれらの数を掛け合わせて表し、演算を行うことで、ありとあらゆる人間の言語表現が扱えるというアイデアは、まさに現代のコンピューターのアルゴリズムの発想に通じるものだ。さらに数字自体を中国の易経から、陰(0)と陽(1)で二進数として表現することも提唱しており、こうした機構を実行するための計算機も構想していた。それは実現することはなかったものの、現代のデジタル・コンピューターの元祖と考えることもできる。
ライプニッツは普遍数学としてのデジタルを志向していたようにも思えるが、一方では無限級数のように計算の極致を探求することで、ニュートンとは別なアプローチで微積分を発明したともされ、数えられないアナログな世界にも足を踏み入れていた。歯車式の計算機ばかりか、パイプをつないで論理を表現し、その中を流れる液体の量を使って計算をするアナログ方式の計算機を発想してもおかしくはなかったろう。
晩年はプロテスタントの勃興したドイツの地で、30年戦争と呼ばれるカトリックとの宗教戦争後の混乱を終わらせたいと心を砕いていたとされるが、自ら聖書を読み論理的・実践的に神に近づこうとするデジタル的なプロテスタントの思考の対極にある、論理ではなく信仰で神の存在自体を不問にするカトリック的でアナログ的とも考えられる発想を理解していたのではないかとも思える。
ライプニッツの計算機が現実のものになるには、啓蒙思想の世紀である18世紀を経て、産業革命後の近代国家の成立や、政治学や経済学、社会学、生物学、物理学などの新たな学問が形を成す19世紀、さらにはダーウィンの進化論やフロイトの精神理論などによるパラダイム転換が起き、ブールによる論理代数、言語の本性を問うソシュールの言語論や、ラッセルやフレーゲによる論理哲学、また数学至上主義のヒルベルトなどの活躍する20世紀を待たなくてはならなかった。
特に論理証明の基本モデルを一次元的なチューリング・マシンとして提唱したチューリングの理論を、具体的に真空管を使った電気回路で実現した世界初の電子式計算機ともされるENIACの製作を手伝ったのが、著者ダイソンの父が研究生活を送っていたプリンストン高等研究所のフォン・ノイマンだった。現在ではノイマンが定式化したコンピューターの基本方式が使われた計算機が、真空管、トランジスター、集積回路へと進化した素子で作られ、ムーアの法則で指数関数的に性能を向上させ、パソコンやスマホ、インターネットへと姿を変えて、デジタル社会を構成している。
しかしラムスやライプニッツの普遍数学をさらに進め、宇宙の原理を数学に求めた大数学者ヒルベルトの考えに疑問を持ったチューリングやゲーデルは、言語理論や数学万能主義の可能性ばかりかその限界を指摘し、いくら言語や論理を駆使しても、証明に無限の時間がかかったり、もともと問題として捉えられない問題があったりすることすら指摘していた。
フォン・ノイマンもセル・オートマトンと呼ばれる、細胞のような機能素子の集合体の相互作用を理論化し、人工生命とも考えられる生命現象を解析しようとした。またウィーナーもサイバネティクスという新分野を提唱し、人間とマシンのアナログな関係性を模索し、一次元的な言語論理内では解けない、もしくは手間がかかって実用的ではない問題にどう対処すべきかと、すでにコンピューター開発の当初からパイオニアたちはアナログ的な問題を意識して取り組んでいた。
気象予報や人口統計などに始まり、インターネットで起きる炎上やフェイクニュースの伝搬、投資家による株式市場の乱高下、どこまで広がるか終わりが見えないコロナ被害など、二次元以上の多数の要素が複雑に絡み合う問題は、図形をXとYの座標で表して組み合わせの数値演算をする解析幾何のように、一次元的に分解合成してその組み合わせをしらみつぶしに調べるアプローチをすることもできるが、ピタゴラスの定理を証明するように、本来二次元的な対象を二次元のまま解く方法はないのか? さらに三次元的な宇宙の変化や、四次元的な時間を加えた音楽的で調和的な実在にどう対処すべきなのかは今後の大きな課題だろう。
人間の理性を指す英語「reason」はギリシャ語の「λόγος(ロゴス)」のラテン語である「ratio」から来ているが、この言葉は比例やつりあいも意味する。理性とは全感覚のアナログなバランスのとれた調和的な状態を指すのであって、視覚や論理のみが強調される言語的な感覚 はその一部でしかなく、それだけを機械的に拡張して処理するデジタル・コンピューターによって言語能力だけを振り回すのは、本来の理性的な状態ではない。
われわれは視覚や論理ばかりではなく、聴覚や触覚などの他の身体的感覚を使って日々生活しているが、大方の時間を、言語化できない部分を非論理的、感情的な無意識に委ねている。これらの、まだわれわれが意識していない未知の原理にどう向かうかは、デジタルを超えた、いわゆる現在はアナログという言葉で一括りにされている何かなのだ。
本書は人類史を自然(アナログ)の中で道具(テクノロジー)を使った知性(デジタル)に目覚めた第一の時代、道具が進歩して産業革命のような近代社会を作った第二の時代、デジタル化した道具が情報を扱い社会を変えた現在の社会としての第三の時代と分類し、第二と第三の時代に焦点を当てつつ、次の第四の時代では、AIやIoTや社会全体のデジタル化が進み、テクノロジーが自然を模倣しながら高度化することで、デジタル化したはずの社会がより自然に近いアナログな姿に回帰していくと論じている。
ピカソはデジタル方式のコンピューターについて、「それは役に立たない。答を出すだけだから」と早くも看破していたが、現在使われているコンピューターは、言語化・定式化された問題を人間より速く解いて答えるだけで、自らが未知の問題を発見することはない。工業時代を効率化するための道具として、こうしたコンピューターは有効だったが、現在求められているのは、人間の知性が常に求めている、現在は問題にもなっていない何かを探り発見・発明する(もしくはそれを助ける)、デジタルの限界を超えた先にあるという広い意味でのアナログ・コンピューターだろう。それは現在は、インターネットや量子コンピューターの先に垣間見えている仄かな光だけなのかもしれないが、本書も指摘するように今後のポスト・デジタルなコンピューターのあるべき姿と考えるべきだろう。
本書の成り立ち
この本の主題でもあるアナログについて長々と述べてきたが、現在われわれがどっぷりと浸かったデジタル社会の限界とその先に見える何かのヒントにはなっただろうか?
本書はかなり専門的な理論も扱っており、おまけに著者のライフワークであるバイダルカ(カヤック)や自然の中の生活、北米のインディアン文化や歴史、さらにはバトラーやシラードやオリオン計画まで登場し、途中で脇道の迷路に迷い込んでしまうかもしれない。
著者のジョージ・ダイソンはすでに10年以上前の前著『チューリングの大聖堂』で、プリンストン高等研究所でいかに初期のコンピューターが開発されたかを追っていて、その続篇を書くよう出版エージェントのブロックマンに促され、前著で言い残したテーマを書こうと考えたという。そこで書かれた最初の提案書には本書の最初と最後の章の内容しかなかったという。つまり、現代のコンピューター理論の曾祖父のようなライプニッツの話と、彼の父とも関係する、無限を扱うアナログの本質とも言える「連続体仮説」を元に考えられる、デジタルの先にある世界は何か? という結論部分しかなかったのだ。
連続体仮説は19世紀にカントールが提唱した、自然数で数えられるものの集合の無限の大きさ(可算濃度)と、実数のように有限の桁で数えきれない無限の大きさ(連続体濃度)しか無限集合の濃度が存在しないとする仮説で、前者がデジタルで後者がアナログに対応すると考えていいだろう。
そういう意味では、アナログ・コンピューティングの話題に限れば、本書は最初と最後だけを読めば、だいたいを把握できるのだが、著者はライプニッツから現代のデジタルの先にあるアナログの可能性を傍証するために、自然の中での生活や非コンピューターの世界をどう織り込もうかと苦労した。そのために書かれた北米インディアンの歴史や『エレホン』や真空管の話などに迷い込むと、ハリー・ポッターの世界に行ってしまいそうだが、この部分こそがきっとポスト・デジタルの世界の大いなるヒントともなると思われるので刮目してほしい。
彼がいかにデジタル・コンピューターとは無縁と思えるカヌー作りや航海などを介して、デジタルだけでは解決できない問題に思いを巡らしているかを知ることは、今後の世界を考える大きなヒントになるだろう。そうした活動を取材したケネス・ブラウワーの『宇宙船とカヌー』には、世界的な理論物理学者としてデジタル的なサイエンスの権化のような父フリーマンが、実は宇宙船オリオン号で机上の理論ばかりか広大な宇宙の大冒険に出かけようとした話と、父の専門のサイエンスから距離を置き、アナログ的な現場のテクノロジーとしてのバイダルカ作りや冒険から始めた子のジョージが、一緒に旅をしながら理論や信念を中心とした組織や学問の世界と、実践と冒険に満ちた自然の両者に目配りし、広く宇宙全体を捉えようとする姿が描かれている。
ちなみに、3年前に亡くなった父のフリーマン・ダイソンは、2016年にロシアの富豪ユーリ・ミルナーと理論物理学者スティーヴン・ホーキングが計画した、切手サイズの素子と帆を付けた超小型宇宙船「スターチップ」数千個に、地上からレーザー光を照射して光速の20%まで加速し、20年で太陽系から四光年離れたケンタウルス座α星まで飛ばす「ブレークスルー・スターショット」のメンバーとして加わっていた。
その話はオリオン計画が構想した原爆を推進力にして飛ぶ高速宇宙船を、ナノテクとレーザーに代えて再生したような、とてつもない夢物語ではあるが、人間の時代の想像力をはるかに超えたスケールで、現在の地上の問題の限界を見つめ、次の100年、もしくは1000年単位の人類の姿を描こうとする姿勢は、息子のジョージばかりか、月や火星旅行を目指すイーロン・マスクやジェフ・ベゾスのような人々の中にも受け継がれているのかもしれない。
私は著者のジョージ・ダイソンとは、『チューリングの大聖堂』を構想しているときに出会い、それ以前にすでに父のフリーマンや姉のエスターにもインタビューする機会があったので、その現代の知性を象徴するような一族の中でテクノロジー歴史学者を目指す彼の慧眼と視点にいつも敬服していた。『チューリングの大聖堂』の邦訳は一部をお手伝いすることができ、文庫化の際には解説も書かせていただいた。
今回の著書『Analogia: The Emergence of Technology Beyond Programmable Control』の存在は、年間100冊を超える洋書を読破して紹介する達人として有名な、デジタルハリウッド大学教授の橋本大也氏のネット投稿で知り、すぐに取り寄せて読んでみて、その卓越した視点に仰天した。
『チューリングの大聖堂』の続篇としてぜひ邦訳を出したいと早川書房に申し出て、編集者の一ノ瀬翔太氏のお手を煩わせたが、他の翻訳が控えていたため、橋本氏に翻訳をお願いして、当方は勝手に本書の周辺を補足する役割を申し出た。長々と持論も含めた話を展開するのも余計かとは思ったが、斬新すぎて取っつきにくい本書の一つの読み方として、読者の皆さんの理解の助けになれば幸いだ。
原題には、ギリシャ語からラテン語に引き継がれたアナログを指す言葉(アナロジア)と、プログラム可能な制御を超えたテクノロジーの出現と副題が付いているが、デジタル時代にアナログの重要性を主張する本書の趣旨が具体的にイメージできるよう、現在デジタルの極致のように 思われているAIのアナログ的な次のステージを見据えて日本語版には「AIの次に来るもの」と付した。
この本は革新的過ぎて、ただちに万人に理解・評価されるとは思わないが、世界的な科学者の息子で、大自然の中でより大きな宇宙の中にデジタルとアナログが調和する姿を見て、本来の人間のあり方を追求する著者だからこそ出会った、われわれのまだ気づいていない次世代の情報宇宙観の顕現に立ち会えるまたとない機会だと思って読んでいただければ、きっと未来が見えるものと確信する。
2023年2月24日 服部 桂