プロローグに出てくるのは小指のない老門番である。2009年秋まで、太秦の東映京都撮影所を訪ねると、正門脇のベンチには眼光鋭い老人がいた。名前は並河正夫という。1950年代の東映時代劇映画黄金期から現場の最前線で予算やスケジュール管理をする制作進行として活躍し、晩年も駐車場の配車係として撮影所に雇われていた。
小指がないだけではない。並河の身体には手首から足首までモンモンが入った明らかにその筋の人である。それなのに長きに亘ってこの撮影所の屋台骨を支え、スタッフから愛されてきた理由な何なのか。
『東映京都撮影所血風録 あかんやつら』はこの並河正夫という一筋縄ではいかないような男まで虜にしてしまった映画の撮影所が見てきた60年にわたる歴史が綴られている。
敗戦後1年も経つと、何もかも無くして外地から帰還してきた男の中から、ひとりふたりと立ち上がる者が生まれてきた。マキノ光雄もそのひとり。「日本映画の父」牧野省三の次男である光雄は、戦争中、満映で李香蘭を売り込んだ実績をもつ。終戦後、東急電鉄の子会社である東横映画の映画製作の総責任者として招聘された。光雄は満州から引揚げてくる映画人の救済を掲げ、映画会社を立ち上げた。京都太秦にあったわずか3棟の木造スタジオとボロボロの撮影所、ここがのちの東映映画の土台を作っていく。
自分たちで修理し立ち上げたスタジオで、金をやりくりしながら映画を作り始めた彼らに順風が吹き始めたのが「時代劇の解禁」だった。GHQの統治下では、封建的という理由から制限されていた時代劇が1952年に撤廃されると、時代劇に飢えていた観客が殺到した。東映には父・省三の時代から培ってきた技術と、片岡千恵蔵、市川歌右衛門という2枚看板があった。光雄は大車輪で増産するようになる。娯楽に徹してスターが活躍し、子どもたちにも受ける作品。それを可能にしたのが中村錦之介の『笛吹童子』である。スタッフともども俳優にも無理に無理を重ねたスケジュールだが、大衆には大歓迎された。
しかしマキノ光雄は48歳という若さで急逝する。その後を継いだ東大経済学部出身のエリート岡田茂が、京都撮影所の命運を握ることになる。千恵蔵・歌右衛門の大御所の衰えが見えたところで錦之介とともにスターダムにのぼる大川橋蔵が現れ、時代劇の黄金期を迎えた。撮影場所もスタッフも俳優も足りない現場では、気力だけが頼りだ。徹夜明けのスタッフに、朝、看護婦が来て腕にヒロポンを打って鼓舞する毎日。しかし、それは苦しくも楽しい日々だっただろう。
時代劇に陰りが出ると、次々にアイデアを立ち上げていく。当たるものもあれば、コケるものもある。映画製作のエピソードを読んでいくと、どうにもその作品が見たくなる。ここからはそんな映画を紹介しつつ、時代を俯瞰してみたい。
時代劇ブームの終盤、東映が取った路線が「集団時代劇」。スター個人の力でなく、多くの俳優がそれぞれの魅力を振りまいた。シリーズ2作目がこれである。美しい殺陣よりも「血まみれの荒々しい肉弾戦」が喜ばれ始めていた。監督は工藤栄一。
そのころケネディ大統領の暗殺があった。映像でその瞬間を目の当たりに見た者たちは、映画の作り方も変えていく。近衛十四郎の「柳生武芸帳』シリーズは柳生一門を「江戸幕府のFBI」と想定し敵は近代戦争の論理を駆使して、戦争アクション映画としての時代劇を作り上げていく。
陰りが決定的になった時代劇映画を見切って始まった任侠路線。これが岡田茂の切り札となる。
この一連の作品で極道の凄味を見せつけた鶴田浩二、高倉健が時代劇のスターたちに入れ替わった。この映画の成功にはひとりのプロデューサーの存在があった。俊藤浩滋。この男の出自は謎で、わかっているのは戦後、沖仲仕をしながら任侠の徒と親交を深め、木屋町のバー「おそめ」のママの愛人となり、そこに出入りする芸能関係者と知己を結んで両方の人脈を結びつけフィクサーとなったようだ。東映の任侠路線が人気を博したのは、この俊藤の働きが大きい。実際のヤクザの生活や賭場の取材、親分たちの話を聞きながら作った物語は臨場感にあふれている。
その俊藤の娘が藤純子だ。
藤純子はクランクイン1か月前から東映京都の殺陣師や絡み役の大部屋俳優が所属する剣会の道場に通い、小太刀の立ち回りの稽古に没頭した。男性的で凛々しい立ち姿の殺陣を体得していった。このシリーズでブレイクしたのは彼女だけではない。若山富三郎がそうだった。すでにトップスターであった弟の勝新太郎や市川雷蔵の後塵を拝していた若山は、この作品で捲土重来を果たす。そして射止めた主役が「極道シリーズ」である。残念なことにDVDになっていない。そうなると見たい気持ちがむくむくと湧く。
そして任侠シリーズは大傑作を生む。
映画を見て出て着た男たちは感化され、ねめつける様な目をして肩をいからしながら揺らし、外はじきで歩いた。藤純子引退の危機感とアメリカの『ゴッド・ファーザー』の大ヒットによって登場したこの映画の原作はノンフィクション作家・飯干晃一の『仁義なき戦い―美能幸三の手記より』。
映画の内容もすごいが、監督の深作欣二と俳優の攻防がすごい。従来ならメインに動く俳優だけに演技をつけるものだか、深作は画面の仲野どんな端役であろうと真ん中に写る可能性を示した。そして一人のスターが作られていった。菅原文太である。様式美をぶっ壊し躍動する映像を創り上げようとする現場で菅原は輝いていく。多分この時が、京都太秦撮影所の頂点だったのかもしれない。
東映映画の傑作として私の記憶に強く残っているのは、夭折した美人女優の名とともにこの作品。
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=7YS9nAAe5ao[/youtube]
いまでは京都の観光スポットとしても有名な京都・太秦の撮影所。本書をもって一度出かけてみるのも楽しいと思う。
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本書にもたくさん登場する脚本家、笠原和夫。綿密なインタビューで描き出す昭和の映画の舞台裏。大傑作。この本を読んでいなかったら、私は本書をこんなにも熟読することはなかっただろう。
水道橋博士ほか、様々な人から大絶賛を浴びた出世作。映画をつくるには狂気のかけらが無ければ無理だ。
こちらは日活。映画会社によってカラーがこんなにも違っていたかと驚く。