最高裁中枢を知る元エリート裁判官はなぜ司法に〝絶望〟したのか? ー 『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー第2弾

現代ビジネス2014年02月18日 印刷向け表示
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--先の質問と関連しますが、日本の裁判官の判断回避傾向、和解の強要、押し付けについて、ビジネスマンにも貴重な情報であると思いますので、少し教えていただけませんか?

瀬木:これについては、日本の裁判官が、本質的に、法服を着た「役人」であり、裁判所当局の、また、制度の「しもべ、囚人」という傾向が強いことに根本的な原因があります。

困難な判断、言葉を換えれば重要な判断であればあるほど、判断を回避したい、つまり、棄却や却下ですませたい、和解で終わらせたい、そういう傾向が強く出てきます。

日本の司法にきわめて特徴的な傾向であるにもかかわらず、これまで、法学者も、法社会学者も、実務をあまり知らないこともあって、こうした事態を見過ごしてきました。

個人の訴訟はもちろんですが、会社の訴訟でも、これはぜひとも理非の決着を付けてもらいたい、判断を求めたい、そういう事件は必ずあるはずです。損得勘定だけのことなら弁護士等を交えた裁判外での話合いが可能な場合が多いでしょうから、企業についても、あえて裁判に訴えるという場合には、それ相応の事情があることが多いでしょう。

ところが、日本の裁判官は、そうした期待を裏切って、ともかく、早く、また判断をしないで事件を終わらせるという方向に走りやすい。

もちろんアメリカでも和解は多いのですが、それなりに手続的な正義が尽くされており、日本のように、裁判官が、当事者の一方ずつに対し、別々に、延々と和解の説得を行うなどといったことはありません。

これは、裁判官が、相手方当事者のいないところで秘密裏に情報を採っている可能性があるということで、国際標準からすれば、手続的正義の基本原則に反するのです。「裁判官はそういう正しくないことはしないはずである」という幻想の上に成り立っているやり方ですが、実際には問題が大きい。裁判官がかなり自覚的な良識派でない限り、危険なことになりやすいのです。

一般にはあまり知られていない問題ですが、国民、市民、企業のいずれにも関係する重要な事柄なので、本書第4章等で詳しく論じています。

--瀬木さん御自身のことに移ります。瀬木さんは、ある時期までは順当にエリートコースを歩んでこられたようにみえます。ネットでは、「絵に描いたようなエリートコースを歩む裁判官だった」、あるいは、「超エリ-トと目されていた」などと評している人もいました。仮定の話ですが、最高裁事務総局の意向を汲み取り、出世コースを邁進することも可能だったのではないでしょうか? なぜそのような選択肢を採られなかったのでしょうか?

瀬木:これは、本書を読んでいただければ、あるいはさらに僕の筆名の書物を読んでいただければよくおわかりになることだと思いますが、そもそも、僕に関する先のような類型的なイメージと、僕の内面、本質との間には、大きな溝がありました。

40歳の時に一時的なうつで倒れた前後から、その溝を自覚するために、あるいは埋めるために、筆名の執筆、実名の研究と執筆、それもかなり先鋭な側面の大きいものを続けてきましたが、それによって、僕は、当然のことながら、一枚岩の組織の中で少しずつ浮き上がっていき、排除されるようになってもいったわけですね。

いずれにせよ、質問にあるような選択肢を採ることは、僕にはおよそ無理でしたし、ありえないことです。

--今のお言葉どおり、最高裁判所調査官時代に「うつを伴う神経症」になられていますが、それほどまでに耐え難い日々だったのでしょうか? 何か直接的なきっかけはあったのでしょうか?

二度目の最高裁判所勤務時代に休職した瀬木氏。裁判官支配・統制の司令塔ともいえる最高裁判所での勤務は、瀬木氏にとって苦痛以外のなにものでもなかった

瀬木:それまでに蓄積してきた無理が一挙に噴き出したという感じでしたね。ですから、主観的にはすごく苦しかったけれども、熟練の医師は、「うつは重くない。神経症的な機制と絡み合っているから苦しいのだ」と正しく診断していました。

実際、しばらくの間入院して、人生というのは、一本のロウソクがしばらくの間輝き、やがて燃え尽きるのと何ら変わりのない、単純なものなのだと悟りました。それだけで、うそのようになおってしまったのです。

つまり、心の中にある機制や矛盾こそ問題だったということなのでしょう。このことは、『心を求めて――一人の人間としての裁判官』(騒人社)などの筆名の書物の中でも詳しく書いています。

--書物の中では、エリート裁判官たちの自殺などその挫折についても書いていらっしゃいますが、そうした人々は、どのようなきっかけで挫折に至ったのでしょうか?

瀬木:挫折の原因は、多くの場合、先に述べたような表と裏の使い分け、二重基準の欺瞞に耐えられなくなったということであると思います。ある意味、その使い分けに徹することができなかった、そうした正直な人々が挫折していきやすいということなのでしょうね。

ただ、そうした人々を端から見ていると、何といったらいいのでしょうか、やや酷な言い方になるかもしれませんが、中身が乏しい、内容がないといった印象を受けることが多かったのも事実です。空洞、空虚を内に抱え込んでいるという感じでしょうかね。

本書で論じている、トルストイの短編から採ったイヴァン・イリイチタイプの裁判官には、多かれ少なかれそういう雰囲気があります。常に自分の内にある矛盾から目をそらし、みずからの良心からも目をそらしているという感じですね。

--業績という形で「神の見えざる手」による調整が働く企業などと違って、官僚機構は、いったん人事がよどみだすと、とどまるところを知らないことになるという印象をもちました。おりしも今年7月は最高裁判所長官の交代期ですが、今後の人事はどのように変わっていくでしょうか?

瀬木:これも書物に記したとおりですが、基本的には路線は何ら変わらないと思います。司法制度改革を悪用して支配、統制のシステムを徹底的に固め、末端の人事にまでその方針を貫徹させている現在の最高裁長官や最高裁事務総局のやり方は、長い時間の間に必然的に積み上げられてきたものであってそう簡単に変わるわけがなく、おそらく、そのまま受け継がれていくでしょう。

もしも、変わった、変わったなどという人がいたら、眉唾で聞いたほうがいいですね。日本のメディアに現れてくる論調には、本質的な問題から目をそらすことによって、意識的にか無意識的にか権力のお先棒をかつぐ傾向が否定できませんが、残念なことです。

また、第6章にも記したとおり、本当をいえば「システム」こそが主人なのであって、最高裁長官等のトップもまた歯車にすぎない、ということもいえます。フランツ・カフカが、『流刑地にて』という短編で語っているのは、まさに、そういう「権力としてのシステム」なのではないかと思います。

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