『市場は物理法則で動く 経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?』

白揚社2015年08月02日 印刷向け表示
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仮想市場での発見

浜田先生との議論を経て、仮想市場の基本形ができあがってきた。全ての市場参加者は、安く買って高く売ることで差額として利益を得ることを目的としていると考える。ディーラー達は、それぞれが戦略を持ち、買いたい価格と売りたい価格を想定する。彼らの希望価格を集めたものは「板情報」とよばれ、最も高い買値と最も安い売値がちょうどぶつかったときに取引が成立し、市場価格が確定する。取引に関わったディーラー達は満足して売値と買値を付け替え、また、確定した市場価格を知ったディーラー達も、それぞれの戦略に応じて売値買値を付け替える。最高買値と最安売値がぶつかるまでは、市場取引が行われない中で、ディーラー達は売値と買値を付け替え続ける。このような基本的な枠組みをコンピュータの中に作れば、あとは、ディーラー達の戦略をいろいろと変えて実験を繰り返せばよい。

複雑な設定はいくらでも考えられるので、まずは、最も簡単で基本的な場合を想定するのが、この種のシミュレーション研究の基本である。これ以上簡単化できないというほど基本的な設定から出発し、そこに1つずつ新たな要素を導入し、その差分から、新たな要素の持つ効果を明らかにしていくのである。

例えば、それぞれのディーラーが、資金が少ない極限として、株を1つ持つか持たないかという簡単な状況を想定し、株を持つディーラーは売値を初めは高く設定し、取引ができるまで次第に値段を下げていくようにし、株を持たないディーラーは逆に買値を初めは安く設定し、買えるまで少しずつ値を上げていくようにした。取引が成立すれば、売り手と買い手は入れ替わる。ディーラーが2人しかいない市場では、容易に想像できるように、売り手と買い手は取引のたびに交互に立場を交換し、また、市場価格はほぼ一定値に収束することが確認できた。

ここまでは、経済学の予想する範囲である。しかし、ディーラーを3人にすると、おもしろい現象が現れた。3人のうち、どの2人が取引をするかが毎回予想できないように入れ替わり、結果として、市場価格も予測できないような変動を起こしたのである。取引をするかしないかという相互作用は、数学的には 強い非線形性を持ち、また、強い非可逆性も持つ。その結果として、わずかな条件の違いを増幅するカオスのメカニズムが働く。そこから、ひとりひとりのディーラーの戦略は未来が1通りに決まっているような決定論的ルールに従っていても、結果としての市場価格の時系列は、予測不可能な変動になることがわかった。また、直前の市場価格の変動に比例するように近未来の市場価格を予測して売値買値を付ける「トレンドフォロー」という効果を導入すると、価格のゆらぎが大きく増幅され、ひとりでに暴騰や暴落に相当する価格変動も現れることもわかった。
 

門前払いから道をひらく

市場変動に関する基本的な特性を解明できたという自信があったので、さっそくこれらの成果をまとめ、物理学では最も権威のある「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に投稿したが、想定外の結果になった。「この原稿が扱っているトピックは物理ではないので、別の雑誌に投稿するように」と言われ、 査読にも回らないで門前払いになってしまったのである(「ネイチャー」誌を舞台にした同様の苦労のエピソードが本書にも見られる)。この雑誌には、それまでフラクタルの研究論文を幾つも掲載していたので、査読に回ればおもしろさを説得する自信はあったのだが、門前払いでは取り付く島もない。とりあえず、論文にすることは焦らずに、研究を深めていくことにした。

このテーマに関しては、マンデルブロとも議論を深めたいと思っていたのだが、フラクタルのブームがあまりにも高まり、マンデルブロは世界中を講演旅行で飛び回るようになり、議論をする機会を持てなくなっていた。そのこともあり、私は研究場所をイェール大学からボストン大学に移した。ボストン大学の物理学科には、私を受け入れてくれた数理モデル解析を専門とするレドナーや、統計物理学の大御所的な存在であるスタンレー、また同年代の研究者が多数おり、活気に溢れていた。ゼミで話をする機会をいただいたときに、最新の仮想市場の解析に関する話をしたが、スタンレーから、詳細よりも、「なぜ経済を研究するのか」と執拗に問われたことを記憶している。ボストン大学に滞在していた間にスタンレーと共同研究することはなかったが、この時の会話が一つのきっかけになって、数年後、スタンレーは経済物理学の論文を量産するようになった。

ほぼ二年間の米国滞在が終わり、神戸大学に戻り、大学院生にも市場モデルのシミュレーションを手伝ってもらい、スタンレーが編集をしている物理の雑誌、Physica Aにやっと論文を掲載することができたときには、92年になっていた。実はこのとき、同じ雑誌に、スタンレーのもとで大学院生として研究をしていたマンテーニャが株式市場のデータを分析した論文を掲載しており、これら二つの論文が、黎明期の経済物理の論文として評価されている。

95年、マンテーニャとスタンレーが、「ネイチャー」誌に、市場価格の変動の解析に関する論文を掲載し、物理学者が経済の研究をすることに注目が集まるようになった。のちにスタンレーに聞いたのだが、彼らも初めは、物理の論文として「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に投稿したが、トピックが物理ではないという理由で門前払いされたため、書き直してネイチャーに載せたということだった。

こうして、経済に関係した研究をする物理学者が次第に増加し、97年には、ブダペストで、経済物理学(Econophysics)を主題とする国際会議が初めて開催された。参加者は総勢60名程度、日本からは自分も含めて3名だけの出席だったが、経済物理学という分野名を冠した第一回の国際会議であり、新しい分野の誕生という高揚感を皆が感じる印象深い会議になった。本書に名前が出てくる研究者の中には、この最初の国際会議に参加した同期生が多数おり、今でも国際会議などで会うと、第1回の国際会議のことを懐かしく語り合う。

97年は、もう一つの意味で、経済物理学にとって重要な年だった。それは、それまで門戸を閉ざしていた「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に、ちょうどこの会議に参加していた日本人三名による経済物理の論文が掲載されたからである。表だって経済をトピックとして挙げると、また門前払いになることが想定されたので、今度は戦略的に、抵抗率が時間とともに変化する電気回路という物理学のど真ん中の問題を議論の中心に置き、そこにベキ分布というフラクタル性が発現するメカニズムがあることを数理的に示し、最後に、それと同じメカニズムが市場変動のベキ分布の説明に使える、という論法にした。この論文以降、市場変動を堂々と議論する論文が門前払いを受けなくなり、「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に経済物理の論文が多数掲載されるようになった。着想からおよそ10年かけて、ようやく新しい研究分野が物理学者らに受け入れられるようになったことになる。

市場は物理法則で動く―経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?
作者:マーク・ブキャナン 翻訳:熊谷 玲美
出版社:白揚社
発売日:2015-08-02
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作者:成毛 眞
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