『移民の政治経済学』 移民にまつわる不都合な真実

2018年2月22日 印刷向け表示
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移民の政治経済学

作者:ジョージ・ボージャス 翻訳:岩本 正明
出版社:白水社
発売日:2017-12-23
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国境のない世界を想像してごらん。

ジョン・レノンはこう問いかけることで、多くの人々の気持ちを動かした。ジョンはそのように想像することは難しくないと言ったけれど、生まれたときから当たり前にある国境が無くなってしまった世界を、具体的に思い描くことは容易ではない。その世界では、人々は本当に自由に世界中を行き来するのだろうか、企業はより安い労働力を求めて移転するのだろうか、いがみ合っていた国と国と争いが瞬時に消えてなくなるのだろうか、オリンピックはこれほど盛り上がるだろうか。

経済学者はこの問いかけに、先ずは貿易を制限する障壁がなくなった世界をシミュレートすることで応えようとしてきた。そして、自由貿易は各国を豊かにすると同時に世界の格差を減少すると信じられてきた。ところが、この数十年の間に貿易の自由化は大きな前進を見せたにも関わらず、経済学者が予期していたような賃金の増大・平準化は実現されていない。北米自由貿易協定(NAFTA)はアメリカとメキシコの格差を減少させると期待されていたが、NAFTAができた10年後の時点で、その格差は拡大していたことが明らかとなった。

自由貿易だけでは不十分だと考えた経済学者は、移民制限撤廃にも目を付けた。1984年に「移民をロボットのような労働者と見なす特有の枠組みの中で国境のない世界を想定した初めての論文」が発表されて以来、多くの経済学者たちが仮想的に国境のない世界を想像してきた。その多くは「国境の開放こそが世界に最大の経済機会をもたらす」と主張し、移民制限の撤廃は年間数兆ドルの利益をもたらすという報告まであった。

著者は、貿易・移民障壁の撤廃が世界を数十兆ドルも豊かにするという主張は、ほとんどが偽りだという。これらの結論は、視野の狭い仮定に基づいており、以下のような問題を抱えていると指摘する。

数十億人に及ぶ移民の流入で、先進国の経済がいかに変化をするかを考慮に入れていない。そうした大きなサプライショックが、先進国にどういった変化をもたらすのかについては何も知らない。自分たちが知らないからといって、特に大きな変化はないと思い込むのは間違っている。移住するのは数十億人のロボットのような労働者ではなく、数十億人の生身の人間だ。

本書は、1950年のキューバに生まれ12歳のときにアメリカに移住した移民である著者が、より広い観点から移民がもたらす経済的影響についてまとめた本である。欧米諸国で一番の社会的問題といってよいほどに重要となった移民問題は、政治活動にも利用されることが多い。リベラルは移民がもたらす多様性とイノベーションを、保守は失業と社会不安を殊更に強調する。著者は徹底してそのようなイデオロギーからは距離を取り、丁寧にデータを読み解くことで、「移民が国民にもたらす経済的な利益や損失は一様ではない」ことを示していく。移民の増加で得をする人もいれば、損をする人もいるのだ。

移民にまつわる議論には、さまざまな神話や寓話が存在する。その中でも有名なものの1つが、低技能労働者の大規模な移住は移住先国の雇用機会に影響を与えない、というものだ。この神話のもとになっているのは、1980年にキューバのマリエルからアメリカのマイアミに短期間で10万人が移住し、わずか数か月の間にマイアミの労働人口が8%も増加した事例を研究したデイヴィット・カードによる分析である。カードは移民増加前後のマイアミの白人労働者賃金の変化を、移民流入の少ない都市での賃金変化と比較した。果たしてマイアミの米国人の賃金は対照都市と同様に安定していることが確認され、移民の流入が賃金に影響を与えていないことが確かめられた。この結論は、2014年にオバマ大統領による書類不所持移民に恩赦を与える大統領令を正当化するためのレポートでも引用されている。

著者は移民の研究を進める中で、移民の影響を測るためには、移民の教育レベルや年齢の傾向を詳しく調べる必要があることに気が付いた。カードが導き出した結論も、「マリエル移民はマイアミ労働者の賃金に影響を与えたか」という問いから、「高校中退者が3分の2であるマリエル移民はマイアミの高校中退者の賃金に影響を与えたか」という問いへと読み替えると結論は大きく変わってしまう。マイアミ地域のヒスパニックではない高校中退者の賃金は移民受け入れ後に急落し、元の水準に戻るまでには何と10年もの時間が必要だったという。移民は、確かに移住先の(特定の)人々の賃金に影響を与えていたのだ。

本書では他にも、ソ連の崩壊がアメリカの若い数学博士号取得者のキャリアに与えた影響などの興味深い実例が多数紹介されている。特筆すべきは、これまで経済学者がどのように考え、何を見落としていたのか、そしてどのような点に注目すべき必要があるのかというプロセスが丁寧に解説されていることだ。これからも、移民を巡る衝撃的な数字がニュースをにぎわすだろうが、本書を読めばその数字の背景で何が行われているかを想像する能力を身に着けることができるはずだ。

アカデミズムにまで移民の神話がはびこっている背景には、移民が全員にとって良いものであるという通説を擁護し、政治的に正しい結論を導こうという学会の圧力があるという。移民が全員にとって良いものだという通説を論文で確実に裏付けることが、社会科学者の目的だと宣言する者もいるそうだ。これは果たして科学的な態度といえるのだろうか。公共政策研究をリードするハーバード・ケネディスクールで20年を過ごした著者は、「社会政策が科学的に決まるという主張が全く馬鹿げていると感じるようになった」という。

移民のコストにスポットライトを当ててきた著者は、「移民懐疑派」とラベル付けされることも多い。移民の意義は、もちろん経済的利益のみではない。著者は、「ほとんど成功の機会のない多くの外国人に希望と新たな人生を提供」してきたアメリカにこそ住み続けたいと力説する。移民を取り巻く不協和音を取り除くためには、不都合な現実から目を背けてはいけない。移民の力を妄信するのでも全否定するのでもなく、困難な現実を乗り越えるための努力こそが必要なのだ。

政治的に正しい通説は間違っている。移民は我々全員にとっていいわけではない。我々全員の暮らしが良くなるという根拠のない主張をやめ、移民受け入れによる勝者と敗者がいることで浮上する問題に対処しようと努めることで、より良い解決策を考えだすことができるだろう。

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