『サルたちの狂宴』訳者あとがき

2018年6月29日 印刷向け表示
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サルたちの狂宴 上 ーーシリコンバレー修業篇

作者:アントニオ ガルシア マルティネス 翻訳:石垣 賀子
出版社:早川書房
発売日:2018-06-19
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IT企業やシリコンバレーの世界を描いた本は数多くあります。イノベーションを起こした企業の サクセスストーリーや仕事術について書いた本などが主流ですが、同じシリコンバレーを舞台にしていても本書はかなり異色です。著者のアントニオ・ガルシア・マルティネスは物理学の博士課程を中断し、ウォール街のトレーディングデスクで働いていましたが、2008年の金融危機を目の当たりにして「アメリカ経済の終焉がきても生き残る」と感じたシリコンバレーへやってきます。そこで中堅スタートアップの社員、スタートアップ創業者、Facebookの社員という三つの仕事を通して奮闘した約5年の体験を、痛烈な皮肉と暴露、そして、ユーモア満載で語りつくしたのが本書です。本人がラジオのインタビューで「この本は心地よく優しくはないが、それはシリコンバレーが心地よく優しい場所ではないからだ」と述べていて、なかなか挑戦的です。

本書は2016年6月にChaos Monkeys: Obscene Fortune and Random Failure in Silicon Valley の題で刊行されました。日本語版は上下巻からなりますが、上巻と下巻では著者の立場はだいぶ違います。みずから「無知だった」というように右も左もわからずITの世界に足を踏み入れた青年が、体を張ってシリコンバレーの文化を体験するのが上巻の「シリコンバレー修業篇」。最初にウェブ広告を扱う会社でスタートアップの流儀を思い知らされ、のちにそこで出会った仲間とスタートアップを立ち上げると、資金調達をめぐる駆け引きから創業者仲間との衝突、大手企業を相手にした会社売却の交渉、さらには訴訟沙汰まで、スタートアップが経験するあらゆる試練をくぐり抜けていきます。その後、広告ターゲティングを扱う初のプロダクトマネジャーとしてFacebookに加わるのが下巻「フェイスブック乱闘篇」。独特の企業文化と一筋縄ではいかない上層部に翻弄されつつ、新規株 式公開(IPO)をはさんだ2011年からの2年間、まだ広告の分野で出遅れていたFacebookで、自分が目指す広告プロダクトの実現に奔走します。

独自のシニカルな視点に加えて本書の特徴といえるのが、自身が身を置いた金融の世界や物理学か ら恋愛、宗教、歴史まで、華麗な比喩を織り交ぜて語られるシリコンバレーの実態です。マーク・ザッカーバーグCEOを王や皇帝になぞらえて、Facebookの権力構造を宮廷政治に例え、「遠く離れた広告部の荒野にいる平民」の目線で社内政治を描写するくだりなどは興味深いものがあります。

また、細部にわたる描写も著者の本領発揮です。TwitterやFacebook社内のインテリアか ら、大物投資家の自宅に呼ばれて資金提供の約束を取り付けるまでのやりとり、トイレでコーディン グする社員、フェイスブックのスター社員が顔をそろえる重要会議の様子まで、みずから体験したか らこそのリアリティにあふれています。ザッカーバーグやシェリル・サンドバーグ、Yコンビネーターのポール・グレアムをはじめ、著名な人物も多数登場します。

シリコンバレー、スタートアップといえば、一般にはよい意味で自由で型破りで、既存の概念にとらわれないイメージがありますが、実際は世間で考えられているほど、またシリコンバレーの住人がみずから思っているほど、リベラルでも寛容でもなく保守的な面がある現実を書きたかった、といいます。その意味するところは本書で明らかにされていきますが、「名誉毀損で訴えられない範囲でシリコンバレーの真実を書けたと思っている」と語っています。

とはいえ、ただ冷笑的なだけではありません。「シニカルな人間は内面では心折れ失望した理想主義者」だと述べているとおり、Facebookでは自分が信じたプロダクトを出すことに情熱を傾けていたからこそ、数字を上げていたにもかかわらず社内の支持を得られなかったことへの失望と無念も大きかったのでしょう。

シリコンバレー的思考法や働きかたを書いた本と違い、本書はみずからの体験を個人の視点で書いたものです。ときにはキューバからの移民を両親にもつルーツへの思いをのぞかせ、自身のロマンスについても雄弁に語ります。男性優位とされる文化や、インド系をはじめとする移民が多い環境など、IT系メディアで報じられるシリコンバレー文化の側面も垣間見えます。実体験から引き出された実 感のこもったスタートアップの心得から、シリコンバレー文化や企業で生き抜く術についての考察、はたまた資本主義論まで、著者の主義と哲学が詰め込まれています。すべてに賛同はできなくても、本書を通じて彼の歩んだ道を追体験することは、同じ業界に身を置く人はもちろん、そうでない人にとっても、働きかたや世界の見かたに新しい光を投げかけるのではないでしょうか。

原題のChaos Monkeys(カオスモンキー)とは、意図的にシステム障害を起こすことによって、実際にサービスに障害が起きたときに対応できるかをテストするツールです。カオスモンキーを「主要企業のデータセンターでケーブルを抜いたり端末を壊したりして暴れている一匹のサル」だとすると、 スタートアップや起業家は社会におけるこのサルである、というのが著者の例えです。Uberがタクシー業界に、Airbnbがホテル業界に、それぞれいわば既存の枠組に殴りこみをかけたように、この先新たなカオスモンキーが現れたときにわれわれはどう生き延びるのだろうか、という問いかけです。

アントニオがすべてを賭けたプロダクト、FBXは2016年秋、役目を終えてサービスを終了しています。著者は2013年4月にFacebookを離れますが、その後モバイルへのシフトが加速し、Facebookの広告事情も短期間のうちに変化を遂げたことはエピローグに書かれているとお りです。

著者は現在《WIRED》をはじめとする媒体への寄稿やメディアへの出演を通じ、ソーシャルメ ディアやウェブ広告について広く意見を発信しています。問題になっているフェイスブックの個人情報流出問題については、今年3月の時点でこんな見解を寄せています。

Facebookとしては流出を許した事実は恥ずべき失態だが、仮にそのデータを使って人々を政治的に操作すべくターゲティングしたとしても、現時点のしくみでは実際に票につなげられるほどの力はないだろう。ウェブ広告に携わる者の間では、そもそもフェイスブックの広告ごときが人の心、ましてやその人の信条や価値 観に深く根ざした政治的意見を変えるなど不可能だという懐疑的な見方が優勢だ

また、意外にも(?)TwitterやFacebookでも積極的に発信していて、IT業界の動向についてのコメントはもちろん、ヨット生活の様子や子どもたちとのひとこまなども投稿され、彼の現在を知ることができるので、興味のある方はフォローしてみてください。

著者はシリコンバレーをジェットコースターに例え、スタートアップが歩む苦難の道のりをサーガ、クエスト、ゲーム、アドベンチャー等々になぞらえています。本書を訳す長い道のりも平坦ではないクエストでしたが、この本を形にするまでの彼の長い旅に敬意を表しつつ、日本の読者のみなさまに 楽しんでいただければうれしく思います。

2018年5月

サルたちの狂宴 下 ――フェイスブック乱闘篇

作者:アントニオ ガルシア マルティネス 翻訳:石垣 賀子
出版社:早川書房
発売日:2018-06-19
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決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
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