辞書によると、「薀蓄」とは深く研究して身につけた知識のことである。しかし、小粋なバーの隣席に下手な薀蓄を傾ける御仁がいると、面倒くさいこと、この上ない。その話題が京都やパリであれば尚更だ。
老舗カバン店のお家騒動だの、ルーブル美術館のスマホアプリだの、煩わしいと思いながらも、つい聞き耳を立ててしまう。薀蓄とは高度な噂話でもある。
本書はまさにその二都の薀蓄だ。語り合っているのは酔客ではなく斯界の泰斗。面白くないわけがない。しかも定価は1200円。ビールとおつまみを用意すれば、秋の夜長、ゆったりとホームバーで二人の語りに浸ることができる。安いものだ。
京都方の井上章一が「やっぱりあちら、パリには、ええ女がおるという」と話題を振ると、パリ方の鹿島茂がそれを受けて語り始める。
ワーテルローの戦いで勝ったプロイセン軍は、フランスから多額の賠償金を得てパリに入城した。そして、パレ・ロワイヤルという悪の殿堂で博打と女に全部使ってしまったという。
しかも歴史は繰り返し、普仏戦争のときも、ヒトラーのパリ占領のときも再現された。パリが「ヨーロッパの売春宿」と呼ばれるようになったのはルイ14世の少し後のことだったと、まさに薀蓄を傾けるのだ。
なにしろこの二人、『ぼくたち、Hを勉強しています』などという不埒な対談を残しているほどだ。本書でも冒頭の京都人とパリ人の気質についてなどはさらりと流し、京の花街とパリの娼館、京女とパリジェンヌと、だんだん鼻息が荒くなってくる。
そのあたりも小粋なバーでこそのお楽しみ。語り手の呼吸が聞こえてこその薀蓄だ。装丁はカバーも本体も赤。赤襦袢とムーラン・ルージュへのオマージュであろう。表紙の写真には素人の京女とパリジェンヌ。
対談本なのに丁寧な注釈が付いている。これは編集者の薀蓄だろう。
※週刊新潮より転載