『138億年宇宙の旅』文庫解説 by 村山 斉

2019年6月6日 印刷向け表示
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138億年宇宙の旅(上) (ハヤカワ文庫NF)

作者:クリストフ・ガルファール 翻訳:塩原通緒
出版社:早川書房
発売日:2019-06-06
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この本を読んでいると、目がくらくらします。

これにはいくつかの意味があります。まず、息を呑む展開でぐいぐいと話が進んでいくので、そのままの勢いで読み続けると目が回り始めます。ときどき立ち止まって深く息をして、ちょっと戻ってからあらためて読み始めないといけません。

次に、「あなた」と呼びかけられて、いきなり星の爆発に出くわされ、ブラックホールからジェットで噴き出され、飛行機に乗って400年後に行き、極小になって電子をつかみ(そこない)、果ては超極小の余剰次元を漂ってたくさんの宇宙を見下ろす羽目になるのです。次に何が起こるかわからない旅に引きずり出されてしまいます。

そして旅の間に解説が入り、天体の仕組みから宇宙の構造、高速の世界の特殊相対性理論から極小の世界の量子力学、そして重力の一般相対性理論と、専門の大学院生でも四苦八苦する物理学の深遠な内容が、あっという間に頭に植え付けられてしまうのです。

加えて、これを全部実現してしまう筆力でさらに目がくらくらするのです。

そもそも私の経験では、物理学の内容を一般の方に説明するのはとてつもなく難しいことです。 「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と言ったのはガリレオ・ガリレイでした。数学を使うのは好きだからではなくて、訳があります。私たちの言葉は日頃の経験を記述するように生まれてきたので、この本で経験させられるような驚くべき場にいくと、私たちは文字通り言葉を失ってしまいます。それで新しい言葉が必要になるのです。それが数学を使う理由です。今まで知られている数学では足りなくなると、新たな数学の分野もさらに作り出し、必要な言葉を獲得しないといけません。人間が作った数学の言葉が完璧である保証はないのですが、そうやって数学の言葉で宇宙を記述しようとすると、経験上うまくいくのです。こうやって物理学は進歩してきました。

ところがこうして数学の言葉で積み上げてきた私たちの宇宙の理解を一般の人に伝えようとすると、そのままでは通じません。いきなりフランス人(作者がそうですが)に日本語でベラベラとしゃべりたてても通じないのと同じです(フランス人には日本ファンが多いので、意外と通じるかもしれませんが)。当然翻訳が必要になります。この本の塩原さんの名訳では感じさせませんが、翻訳ではかならずどこかニュアンスが失われてしまいます。特にジョークがむずかしい! これと同じで数学の言葉を普段の言葉に翻訳するとどうしてもニュアンスが伝わらなくなります。

これは物理学に限ったことではないと思います。物理学者である私にとっては、法律の話はちんぷんかんぷんですし、生物の話は新しい単語がたくさん出てきてついていかれません。言葉が通じなければ、わからないのは当たり前でしょう。

そして正確に記述しようとすると言葉がたくさん必要になります。日本語ではわかめ、こんぶ、のり、めかぶ、もずく、ひじき、と大事にしている一つ一つの名前が、英語では十把一絡にseaweed (海の雑草)となってしまいます。エスキモーの言葉では雪を表す単語が数多くあるといいます。翻訳が難しいのは当たり前です。

ガルファールはそこで「翻訳する」ことよりも「見せる」ことにしたのでしょう。「あなた」を旅に引きずり出すことで、ビビッドに日頃経験するのとは全く違う世界を見せてしまいます。百聞は一見にしかず。見てしまえば、くどくど言葉を翻訳しなくてよくなるのです。「このseaweed はわかめで、あのseaweed はこんぶで」と英語で説明されたら、ほとんどのアメリカ人は一瞬で興味を失うにちがいありません。でも写真を見せられれば、まったく違うものだということがすぐわかります。

塩原さんも書かれていますが、このやり方で成功した例はジョージ・ガモフの『トムキンス』の本でしょう。この本では光の速さが時速20キロメートル程度の町に入り、自転車に乗ると周りの建物が縮んで細くなって見え、時計台に着くと腕時計が遅れているのです。量子の世界ではビリヤードのボールがラックからにじみ出るし、突いた途端球がビリヤード台全体に広がってしまいどこにあるのかわからなくなります。私自身ガモフの本のビジュアルな不思議さに接したのが、物理学に興味を持ったきっかけの一つでした。ガルファールの本では第1部からさっそく宇宙の旅に出ます。きっとこの本を読んで興味を持つ子供たちがたくさん出るだろうと思うのです。

そこで言葉を失う不思議な経験が、目がくらくらするスピードで続々と登場します。

私たちが日頃経験するスピードは、一番速くて飛行機でしょうから、時速1000キロメートル程度なので、光の速さのざっと100万分の1。飛行機を降りても400年後に着くどころか、せいぜい20ナノ秒しかかせげません。光の速さに近づくと何が起きるか、はアインシュタインの特殊相対性理論でわかるのですが、これが第3部のテーマ。

一方私たちが日頃見るものは小さくても1ミリメートルくらいでしょう。ところが原子は
1億分の1センチメートル。こんな小さいものは、「見よう」とするだけでその動きを変え
てしまうので、なにもかもぼやけて、とらえどころがなくなってしまいます。これが量子力
学の世界で、第4部のテーマ。特殊相対性理論をさらに組み合わせると場の量子論といいま
す。

そして山を登る時には重力に逆らうのがとても大変に思うものですが、地上の重力では時計が遅れるのは一日で60マイクロ秒ほど。ブラックホールの表面に行けば時計の進みがずっと遅くなり、頭上では宇宙の進化がどんどん進んでいくのをみることになります。この重力の効果が一般相対性理論の守備範囲で、第2部と第5部に登場します。

こうして大きく重いものは一般相対性理論、小さいものは場の量子論と棲み分けているうちは問題ありません。ですがブラックホールの中心や宇宙の始まりのように膨大なエネルギ ーが小さな空間に詰め込まれると、どうしても両方を合わせないといけなくなります。それ がうまくいかない、というのが第6部。

これをなんとかしたい、と作者の師スティーヴン・ホーキングを始め、たくさんの物理学者が頭をひねっているようすが第7部に紹介されています。ここまでくると、専門家も手探り状態であることがよくわかります。

この本は重力波が発見された次の年、2016年に加筆修正されているそうですが、宇宙の研究はその後もさらに進んでいます。第1部では太陽が生涯の最後に爆発して地球を滅ぼし、合成した金などの元素を宇宙空間に撒き散らす恐ろしい光景が出てきますが、太陽くらいの小さめの星は実は爆発はしません。ただブワ〜っと大きくなって地球を焼き尽くすのは間違いないので、脱出計画は必要です。この本を読んだ若者たちのために。そして金を作る現場は太陽ではなく、中性子星という星の燃えかすの合体です。この現場は2017年に重力波で初めて見つかりました。このとき地球10個分の重さの金ができたと見積もられていますが、宇宙空間にばら撒いてしまうので、なかなか一攫千金とはいきません。

また、太陽系に一番近い星プロキシマ・ケンタウリには惑星はなくて残念だと書いてありますが、2016年に地球サイズの惑星があることがわかり、しかも液体の水がありそうな「ハビタブルゾーン」にあるようです。ここへiPhoneサイズの探査機を飛ばし、レーザーでつんつん押して光の速さの1/3ほどまで加速し、10年程度で写真を撮りにいく、という野心的な計画まで浮上しています。

そして2019年には、ブラックホールの写真まで撮れてしまいました。地球上の電波望遠鏡をたくさん組み合わせると、地球サイズの望遠鏡として機能します。望遠鏡は大きければ大きいほど解像度が上がるので、これでニューヨークの新聞を東京から読めるほどの解像度を実現しました。こうして約6000万光年ほど離れたM87銀河の中心にある、太陽の65億倍の重さを持つ超巨大質量ブラックホールの写真が撮れたのです。もちろんブラックホールからは光すら出てきませんので、ブラックホール「自身」の写真ではありません。ブラックホールに引きずり込まれる物質が出す電波は見える一方、ブラックホールのあたりからは電波が来ないので、その「影」がはっきりと見えたのです。こうして地球規模の協力で宇宙の研究はさらに進んでいます。

この本では少々正確さに欠ける記述もありますが、本書の醍醐味はこうした「豆知識」ではなく、ざっくりといままでわかってきた、そしてまだわからない宇宙の姿を「見せて」くれることです。本当に目がくらくらしました。

そしてこの本を読んでいてどうしても欲しくなったものが二つあります。

一つ目は本書で度々登場する「ヨガモード」。どうもこのモードに入ると、見ることのできない宇宙の仕組みが見えるようです。こんなことができるなら、私たち物理学者の仕事はずっと楽になります。

そして二つ目は「あなた」に評判が悪い大叔母さんの悪趣味なクリスタルの花瓶。

理論物理学者 村山 斉

138億年宇宙の旅(下) (ハヤカワ文庫NF)

作者:クリストフ・ガルファール 翻訳:塩原通緒
出版社:早川書房
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決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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