具体的な数字やデータを示してもダメ。明晰な論理で説いてもムダ。そんなとき、あなたはきっとこう思ってしまうのではないか。「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」。
実際問題、日々の生活でそんな思いを抱いてしまう場面は少なくないだろう。失敗例がすでにいくつもあるのに、それでもまだ無理筋を通そうとする社内のプレゼンター。子育てのあり方をめぐって、何を言っても聞く耳を持ってくれないパートナーなど。また不思議なことに、たとえ高学歴の人であっても、「事実に説得されない」という点ではどうやらほかの人と変わらないようだ。
さて本書は、冒頭の問いを切り口としながら、人が他人に対して及ぼす「影響力」について考えようとするものである。心理学と神経科学の知見を織り交ぜつつ、著者は早々に厳しい診断を下す。
多くの人が「こうすれば他人の考えや行動を変えることができる」と信じている方法が、実は間違っていた…。
数字や統計は真実を明らかにするうえで必要な素晴らしい道具だが、人の信念を変えるには不十分だし、行動を促す力はほぼ皆無と言っていい…。
では、どうして数字や論理はそれほど無力なのか。その答えは、わたしたちが「事前の信念」(簡単にいえば先入観)を持っていることと関係している。つまり、事前の信念が邪魔をして、わたしたちは事実を受け入れがたくなっているのだ。
興味深い実験がある。チャールズ・ロードら3人の心理学者は、アメリカの大学生たちにふたつの研究レポートを示した。ひとつは「死刑の有効性に関する証拠」で、もうひとつは「死刑の効果のなさに関する証拠」であったが、じつはそのどちらもロードらがでっちあげたものであった。では、大学生たちはそれらの「証拠」をどう評価し、それに応じて自分の考えをどう変えていったのだろう。
実験の結果はじつに印象的である。もともと死刑制度に賛成していた学生は、「死刑の有効性に関する証拠」を高く評価し、死刑賛成という自分の信念をさらに強固なものにしていった。反対に、「死刑の効果のなさに関する証拠」は説得力のないものだと切り捨て、それに応じて自分の考えを変えたりはしなかった。もう一方の、もともと死刑制度に反対していた学生も同様である。もうおわかりだろう。わたしたちには「賛成意見しか見えない」という強い心理的傾向(いわゆる確証バイアス)があるのだ。
それだけではない。わたしたちには「ブーメラン効果」と呼ばれる心理的傾向も備わっている。自分の考えに反する証拠が出てくると、まったく新しい論点をこしらえて、かえって自分の考えに強く固執するようになるという傾向がそれである。しかも、今日の社会ではさまざまな情報をいともたやすく入手することができる。そこでわたしたちは、自分に都合のいい「証拠」を新たに見つけ出しては、自分の考えをより強化していってしまうのである。
そのような事情があるゆえ、「悲しいかな、事実や論理は人の意見を変える最強のツールではない」。そしてそうであるのに、事実ばかりで人を説得しようとすると、事実の影響力はさらに低下してしまう。著者は指摘する。
情報や論理を優先したアプローチは、意欲、恐怖、希望、欲望など、私たち人間の中核にあるものを蔑ろにしている。
ならば、どうすればいいというのか。その点については本書の残りの部分(とくに第2章〜第8章)で詳しく語られているが、そこで著者が提唱している方法のひとつが、「相手の感情に訴えること」(第2章、第3章)である。
「相手の感情に訴えながら説得せよ」というのは月並みなアドバイスに思えるかもしれない。ただ本書でおもしろいのは、「感情にも使い分けがある」ことを指摘している点である。相手に何かをさせたいなら、その人に「快楽」を与えたほうがよい。他方で、相手に何かをさせたくないなら、その人に「恐怖」を与えるのが効果的だ。というのも、快楽を与えると人は活動的になる(ゴー反応)が、恐怖を与えると人は活動が鈍くなる(ノー・ゴー反応)からである。要は、「快楽で動かし、恐怖で凍りつかせろ」というわけだ。その点を踏まえたうえで、著者は次のような具体的な提言を行う。
社員の働く意欲を高めたいときも、子供に部屋を片付けてほしいときも、思い出してほしいのは脳の「ゴー反応」だ。ポジティブな期待感を植えつけること──その週に最も生産性の高かったスタッフを企業のホームページで発表したり、大好きなおもちゃが洋服の山に隠れているかもしれないと思わせたりすること──は、減給やお仕置きよりずっと人を動かす役に立つ。
というように、本書には具体的で実践的なアドバイスも詰まっている。それらのアドバイスや、そのほかの指摘も、ことごとく的を射ていて、「そうだよ、そうなんだよ!」と思わず唸らされてしまう。わたしなんぞは、「賢いと思われている人ほど積極的に情報を歪めやすい」という議論を読んだ際には、電車内であるにもかかわらずニンマリ顔をこらえられなかったほどだ。
読者の興味を引くようなトピックの選び方(魅せ方)もじつに上手。そんなわけで、書名のような疑問を日頃抱えている人は、本書を手に取ってみたらよいと思う。いや本当は、そんな疑問を微塵にも感じていない人こそ、本書を手に取るべきなのだろうけど。
著者の前著。著者は専門が認知神経科学で、現在はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン教授。
ネット上でフェイクニュースがいかにして拡散するのかをわかりやすく説明した本。見たいものしか見えなくさせてしまう「フィルターバブル」の話などは、今回の本の内容とも重なる。
「影響力」や「説得力」に関する議論といえばチャルディーニだろう。『PRE-SUASION』のレビューはこちら。