麻酔で意識が落ちた時、何が起こっているのか──『意識と感覚のない世界――実のところ、麻酔科医は何をしているのか』

冬木 糸一2019年12月25日 印刷向け表示
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意識と感覚のない世界――実のところ、麻酔科医は何をしているのか
作者:ヘンリー・ジェイ・プリスビロー 翻訳:小田嶋 由美子
出版社:みすず書房
発売日:2019-12-18
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歴史の本、特に最悪の医療の歴史などを読んでいると、あ〜現代に生まれてきてよかったなあと、身の回りに当たり前に存在する設備や技術に感謝することが多い。昔は治せなかった病気が今では治せるケースも多いし、瀉血やロボトミー手術など、痛みや苦しみを与えるだけで一切の効果のなかった治療も、科学的手法によって見分けることができるようになってきた。

だが、そうした幾つもの医療の進歩の中で最もありがたいもののひとつは、麻酔の存在ではないか。正直、麻酔のない世界には生まれたくない。切ったり潰したりするときに意識があるなんてゾッとする──現代の医療に麻酔は絶対絶対必須だ。そのわりに、患者に麻酔を施す麻酔科医の仕事は光が当たりづらい分野である。何しろ実際に手術や治療を担当することはめったにないから、麻酔科医という役割が存在することさえ知らない、あるいは「いや、いうて麻酔を打つだけでしょ?」ぐらいで、あまり意識しない人も多いかもしれない(僕も正直、こっち側である)

実際には、麻酔科医の仕事は超重要だ。確かに患者と麻酔科医が引き合わされるのは手術や治療が行われる数分前なので、患者の記憶に強くは残らないかもしれない。しかし、彼らが手術の前後から最中に適切な処置をし、待機を行っているからこそ、現代の医療が成立するのである──というわけで、本書『意識と感覚のない世界』は三〇年以上麻酔科医としての経験を重ね、時に七〇〇グラムの未熟児から、時には人間ではないゴリラまで、幅広い存在に対して麻酔を施してきた著者ヘンリー・ジェイ・プリスビローによる、自身の仕事についてのエッセイである。

科学ノンフィクション的な麻酔についての化学的、科学的な紹介やその歴史についての記述と、麻酔科医として彼がこれまでどのような案件を担当してきたのか。そのたびにどう対処し、どのような難しさがあったのか。そして彼はピンチを切り抜けるたびに、何を学んできたのか──という、麻酔科医の日常がいい具合にブレンドされていて、読み終える頃には麻酔科医の仕事がどれ程大変なものなのかがよくわかるうえに、麻酔科医への強い感謝を覚えているだろう。

麻酔科医にメディカルスクールで学んだことを忘れる贅沢は許されない。おそらく他のどんな専門医も、麻酔科医ほど基礎科学(解剖学、病理学、生理学、薬理学)および臨床医学の全分野(内科、外科、小児科、産科、場合により精神科)に精通し、他の想定しうるすべての専門分野にかかわる広範囲かつ包括的な知識を維持している者はいないだろう。

『麻酔管理をしているとき、私は内科医、産婦人科医、そして小児科医になる。』と著者は語るが、事実その通りに麻酔科医は様々な病状の患者に対して必要とされるから、広範な臨床医学の分野に精通していなければ、いざという時の対応ができないのだ。手術の経過において患者の痛みは常に同じではなく、身体は痛みに応じて様々な影響を与えるし、失血による心拍リズムの変動など、状況に応じて患者を適切な状態に戻すのも麻酔科医の仕事なのである。

麻酔科医の苦闘

本書の中では、そうした様々な状況に対応しなければならない麻酔科医の苦闘が綴られていく。たとえば、印象的だったのは、四歳の男児であるマイケルに対する麻酔処置の記録が語られる第六章「絶飲食」。基本的に、麻酔処置をする場合は胃を空にしていなければならない。

麻酔は筋肉を弛緩させて反射をなくすから、食道の括約筋が弛緩して胃の内容物が口に逆流し、誤嚥を起こして合併症を誘発させる可能性があるからだ。だが、その時手術前に、マイケルは「シリアルを食べた」といったという。もし本当なら処置を延期すべきだ。だが、彼はいますぐにでも手術を必要としている。「いつ食べたの」など聞いてみても、にやにや笑って何も返答しないから、ウソかもしれない。カルテをみると、食事は出ていない。念の為、担当看護師に電話をかけて、「彼はシリアルを食べていない、配膳もされていない」との確認までとった。

そのことを本人に問いただし、どこから手に入れたのと聞くと、今度はママにもらったのだという。そこでまた担当看護師に電話をして母親は来ていたかと聞くと、やはり来ていないという。さすがに看護師もいらいらしてきており、結局、信じて手術をすることにするのだが、麻酔が導入されるとマイケルから「ゲプッ」と音がして、お腹がわずかに震えた。本当にシリアルを食べていたのだ。その一瞬の変化に彼は気づき、なんとか口からシリアルを吸い出して、最悪の事態は回避される。が、合併症発生のすれすれだったのは間違いない。

他にも、「何も問題はありません」といって担当をした生後十二ヶ月の女児に対する麻酔投下後、パルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度と脈拍数を測定するための装置)の異変に気が付き、X線の検査を行ったところガンであることが発覚したエピソードが語られる第九章など、麻酔科医がどれほど細やかに気を配らなければならないのか、一歩間違えたら大惨事を招きかねない綱渡りを歩き続ける麻酔科医の緊張感が、こうした事例からはよく伝わってくる。

『一般的かきわめてまれかにかかわらず、麻酔には潜在的なリスクがある。麻酔専門医は最善の結果を得るために幅広い知識を維持し、広範な情報に注意を払う必要がある。』

おわりに

下記は「はじめに」の末尾にあたる文章だけれども、全体を通して科学的でありながら、同時に端正で美しい文章も本書の魅力だ。本稿ではまったく紹介していないが、麻酔の歴史、麻酔がもたらすリスクについてなど、基礎的な部分の情報もきちんとまとまっている。全部で二〇〇ページちょっとで、サクッと読めるので、ぜひ年末年始にでも楽しんでいただきたい。

 麻酔薬を投与するとき、私はいつも患者に「一〇〇からカウントダウンしてください」と言う。この方法は、昔から続く麻酔科の伝統である。半世紀前に即効性のあるバルビツール酸系麻酔薬が開発され、秒単位で意識を消失させることが可能になると、麻酔科医は麻酔の効果が現れるスピードを知りたくて、患者に一〇〇から順にカウントダウンさせるようになった。一〇〇……九九……九八……
 カウントする声が止まる。
 私の経験では、九〇より先まで数える患者は一人もいない。

瀉血や水銀製剤、食人など様々な「歴史上の最悪の医療」について紹介された一冊である『世にも危険な医療の世界史』もあわせて読むと、麻酔があることのありがたさが増すだろう。

世にも危険な医療の世界史
作者:リディア ケイン 翻訳:福井 久美子
出版社:文藝春秋
発売日:2019-04-18
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