私が住む東京都町田市の小田急町田駅の東口の広場には「絹の道」という石碑がある。それをゼミ生に見せてからJR横浜線の下り線に乗り、八王子に向かう。その車中で、なぜ八王子と町田を結ぶこの街道が絹の道と呼ばれるか、学生たちに説明する。
このあたりの多摩丘陵の地形地質が桑畑に向いていて、それが地域の養蚕業を盛んにしたこと。そうして絹製品の産業基盤がこのあたりにあったところに、幕末期に盛んになった生糸輸出で、山梨や長野、群馬の生糸がいったん八王子に集まり、そこから輸出港横浜まで運搬されるルートができたこと。その流通加工拠点であった八王子には富が蓄積されたし、横浜までは生糸を馬の背に乗せて運ぶにも一日では歩ききれないので、行商人たちがその中間地点の町田で一泊してお金を落としたこと。横浜で生糸を売り捌いて懐が暖まった行商人たちが、おそらく帰路についた一泊目の町田で羽根を伸ばしたので町田には町の規模の割りに大きな歓楽街があること。
そしてここからはさらに無謀な憶測だが、つい遊びすぎた商人は費用に窮して往路は生糸を背負わせてきた馬を売ったりしたのではないか。そのせいで町田の駅近くに老舗の馬肉料理屋があってそこの桜鍋も有名なのではないか、なんてことも話す。
列車が八王子駅に着くと北口から数分歩き、国道16号線に出る。中央線の駅前が発展するまではおそらくこの古い街道沿いが八王子の中心部だったはずで、その商店街を歩きながら、さらにゼミ生たちにエピソードを紹介する。
絹に関わる産業でこの町が繁栄して、ある呉服屋のお嬢さんが名門立教女学院に入り、そこから染色を志して多摩美術大学に進学したこと。ここまでは呉服屋のお嬢さんとしては自然なキャリアだが、少女時代に音楽に目覚めてしまったため、まだ小さいのに麻布あたりでミュージシャンと交流して刺激を受け、一気に才能が開花し、当時の自分の生活情景を描写して名曲を次々と創作したこと。
彼女が相模線にゆられて茅ヶ崎のゴッデスに行ったり、山手のドルフィンでソーダのグラスをかざして貨物船を見たり、当時のお洒落な若者が憧れるスポットを固有名詞のまま歌詞に使ったため、そのスポットに彼女のファンが押しかけて繁盛して、彼女自身が予約しようとしても断られるようになったとか、そんな逸話を話して、「誰のことだかわかる?」と聞いても平成生まれの学生たちにはにわかにわからない。
それでなおも、「そのお嬢さんが都心で遊んで夜遅くに彼氏の車で中央自動車道を送ってもらうとさ、調布のあたりだな、右手にビール工場、左に競馬場、っていう光景がフロントグラスを染めて広がっているわけだ。聴いたことあるんでないの?」「あ、ユーミンの中央フリーウェイですね!」「そう、それでそのユーミンの旧姓が荒井だよな。そんならこの呉服店の店名は?」と聞くタイミングくらいで、ちょうど荒井呉服店の前に着くわけである。この頃には喋るこちらも気分が盛り上がってしまって、歌詞を紹介するだけのつもりが節つきで歌ってしまうので、呉服店の中から店員さんが怪しげに三宅ゼミ一行を見ていたりする。
かくもかくも、地域の産業の成り立ちと文化論を郷土史に結びつけて解説するのは面白いし、学生にもいい勉強になる。なぜその地域の人たちはそういう生業に携わり、そこからどんな生活が、文化が生まれたのか。原料調達や輸送コスト、利益の配分、鍛えられるビジネススキルとセンス、語り出すと、どんな町にもそれぞれの個性的な来歴がある。それを知ると、学生たちの地域と産業を見る目が鋭く、深くなるので、ひところはこの八王子巡検はゼミの秋学期初めの恒例行事にしていた。
このあたりのうんちくについては以前、糸井重里さんが「町田ってどうしてこうなっているの?」とツイートでつぶやいていたので、簡単に産業立地論と郷土史を絡めた説明を御進講したことがあった。その時に糸井さんが、「明け方の若者たち」でいまをときめく「町田の民間スポークスマン」、カツセマサヒコさんと繋いでくださったりしたのもありがたい御縁だった。
そのやり取りを見ていた本書の著者、柳瀬博一さんが「あ、三宅さんも国道16号線論者だったんだ。」とコメントしたのが、柳瀬さんがずっと国道16号線をテーマにした文明論(?)に取り組んでいると知ったきっかけである。
柳瀬さんの文明論は、私が近所をちょこまかとなぞる程度の掘り下げ方ではない、もっと長期的視野からの深いものである。私はせいぜい、「もともとこのあたりは養蚕が盛んだったのは桑畑があったからで」くらいまでで説明できたことにしてしまうが、ではなぜこのあたりには桑畑が多かったのか。それは、地形と地質が重要な要因なのだ。そのとき柳瀬さんが使うフレームが、それぞれの地域に降った雨がどこを通って流れていくか、というところに目をつけた「流域思考」である。(このことは逆に言えば、地球上の雨が降る地点はどこでも、どれかの河川の流域に含まれるということである。)
人間がある土地を生産活動のために改造する。それは主に、その土地を潤す水の流れをコントロールするということである。柳瀬さんは三浦半島は小網代の自然保護に関わった経験から、重要な洞察を筋肉痛に苦しむ身体で痛感する。「大河はともかく、小さな川の小さな流域なら、ほどほどの小集団の人力だけで暮らしよく改造することができる」ということである。
それは関東地方なら「谷戸」と言われるような、丘陵・台地が水流に浸食されてできた小さな地形のあるところである。そこから流れ出た小河川が合流して大河になれば、流域に広大な沖積平野が形成されるが、その大河の流れをコントロールするには、大規模な集団を統制する巨大な権力が必要になる。それを古代からやらざるを得なかったのが、黄河流域の漢民族で、大規模な治水工事のために人々を統制する専制権力が生まれたのが東洋の古代だ、と論じたのはドイツの社会学者、カール・ウィットフォーゲルだった。彼の議論は、経済史を少し勉強していれば耳にしたことがあるのではないだろうか。
つまり鍵になるのは「人間の自然改造力と地形」の力関係の歴史的変遷、と言えようか。本書を読んでいて、あれ、この柳瀬さんの観察は、ちょうどウィットフォーゲルの水利帝国論の裏返しではないか? と思うところがあった。
日本の地形は中国大陸の、それも中原黄河流域とは大きく違う。こちらには小集団でも改造しやすい小流域があったから、古代から日本は東洋的専制体制にならずに、小集団割拠的な社会が、特にアヅマ、あるいは坂東と言ってもいいが、関東平野とその周辺地域の特徴になった。この地域はそれぞれの小流域を耕す武装農民たちの分立する体制がまず基盤としてしっかりと存在し、古代から中世の日本史を見ていても、西のヤマトから借りてくる祭祀王の権威も、箱根を越えると骨抜きにされた感がある。
それは沖積平野の治水という難題を避け得た、中世以前の日本人の、特に関東地方の歴史である。近世に至ってやっとのことで、大きな権力を掌握した徳川家康が「満を持して」関東平野という日本最大の平野中心部の開発に手をつけることができたような経緯が、中原の漢民族とは違う、我々の歴史背景だった。
つまり江戸から続く現在の東京という大都市は、まず沖積平野の周縁の、丘陵・台地の縁の小流域から発展した集落群が先にあり、その集落群が描く縁の内側の沖積平野に、後から形成されたのである。これは世界の大都市でも珍しい成り立ちと言えるのではないか。
しかし、そんなにも都市の成り立ちは歴史的経緯に影響されると言い切れるのか、と訝しむ人もいるかも知れない。しかしこう考えてはどうか。つまり「まち」と「みち」、集落と道路は相互依存的関係にあるはずだ。人が集住する集落を結ぶからこそ道路は成立し、そのことによる便益から道路を維持管理するコストも回収できる。また集落も、それらを結ぶ道路があるからその便益を活用し、その同じ場所に存続・発展しやすくなる。ということは集落と道路のセットで形成されるネットワークは、歴史的経路依存性が強い構造物であるはずだ。
そうすると、東京湾と湾奥の平野部を凹凸のある丘陵が囲み、そこにあるそれぞれの小流域に中都市が立地し、それらを結ぶ道路が、浦賀水道という細い海域を除いて、馬蹄形に発達するのは自然なことであろう。その道路の「現在の名前」がたまたま国道16号線なのである。著者の観察する16号線ベルト地帯論は、東京の後背地としての、都心から後にできた郊外論ではなく、都心よりも先駆けて発達した「馬蹄形崖線都市地帯」論であると言った方が正しい。
世界都市、と呼ばれるような各国の大都市圏で、東京以外にこんな成り立ちをした事例は他にあるのだろうか?パリもロンドンもニューヨークも、大河が流れる平野部の中州を中心に発達したように説明されている。しかしもしかしたら、その平野の縁にある丘陵の小流域集落がまず近隣地域のインフラの元になり、その恩恵を蒙って小流域集落で囲まれた空間に大都市が発達しやすくなったのではないだろうか。
そう考えると、関東平野と東京湾とその外縁の丘陵地帯のかたちは絶妙なシェイプになっている。平野が海に接する海岸線は普通は滑らかになるはずだが、東京湾岸の輪郭は湾奥を除くとかなりデコボコしている。そのデコボコのそれぞれが、小流域になっている。それはこの地域が、世界的にも珍しい、いくつものプレートがひしめき、地形を盛り上げる作用がぶつかりあう場所であるかららしい(できればそのプレートのくわしい地図も本書に加えて欲しかった)。やはり東京という都市は、いくらか珍しい経緯を辿って発達したと言えるのではないだろうか。
16号線ベルト地帯は既にそこだけで、一千万近い大きな人口を擁する都市圏であり、本書の大きな功績は、このドーナツ状の「(東名阪に次ぐ)日本第4の大都市圏の発見」である。そしてその基盤は東京都心よりも早くから存在していたのである。
では東京都心都市圏はなんなのかというと、既存の馬蹄形都市圏の内部の空隙にできあがった、さらにもうひとつ高次の都市圏、世界都市だということにならないか。この二つの都市圏は、都心から放射状に発展した鉄道路線を介して、労働力と経済力を交換する関係を構築し、相利共生的に発展し得たといえるのではないか?
「大東京圏」から16号線ベルト地帯を除いた真ん中の地域だけでは、都市機能が成り立たないだろう。そして16号線ベルト都市圏は、特別な娯楽や大きな買い物、イベントなどの「ハレ」の機能のかなりを東京都心のハブに譲っている代わりに、「ケ」の生活文化を充実させることができる。世界有数のハレ空間である東京都心と分業することで、ケの空間として16号線ベルト都市圏は、「豊かな普段」を手に入れることができる。その意味で日本の他の地方の人口50万から100万ほどの各都市とはまるで意味が違う。
本書の最後の方に『反穀物の人類史』の著者、人類学者スコットの名前が出ているが、どうもアナーキーな思想傾向を持っている彼が持ち上げた「ゾミア(東南アジア高原地帯の、国家の実質的な統制が及びにくい部族社会的地帯)」と、ウィットフォーゲル的な、大沖積平野を治水権力で支配した専制君主の帝国領域のあいだのモヤッとしたところに、本書が目をつけた小流域をルーツとする分権割拠的成り立ちを経た社会がある。
本書がコロナ禍勃発の直後に出ることになったのは幸運と言えるだろう。コロナ禍の前後で、本書の主張、意味がまるで違うように受け取られるはずだ。人々が密集する都心にいささか倦んで、しかも都市の魅力を愛しながら、生活を楽しむとすれば、自ずと都市圏の外縁部が注目されるはずである。そういえば子供の頃はともかく、年を経て大人になるとどういうわけか、自然の情景を見飽きなくなるような気がするが、それは設計されたオブジェクトと、自ら生成遷移する生態系のあいだのバランスを欲するようになるということなのだろうか。
本書は、短期集中的に演繹法でネタをサーチして企画を煮詰めていくような「わざわざ書いた本」ではなく、長い年月、著者がアンテナをかざして生活しながら、縁あってそれに引っかかったネタが溜まっていったなかから、帰納的に推論を引き出して書かれたように見える本である。
著者自身のものの見方も、書き進みながら焦点が合っていく感がある。そしてそこから引き出される本書の着眼と問題意識は、世界各地の地域・都市の開発と発展を分析する枠組みになり得る。
本書を読んで、自分の住む街の地形、流域、また文化や物流の流動、変遷を見ることがより面白くなるに違いない。日本国内でも、おそらくこの「坂東」に似ない別の原理が支配した地域もあるはずだ。また16号線ベルト地帯でも、本書で相対的に記述が少ないその東北方面、千葉・埼玉内陸部には、例えば「絹の道」に対応するような、「醤油水路」のような現象があったのではないか? そしてその地域にはその地域なりの、文化コンテンツも生まれたのだろう。
それらをそれぞれの地域毎に掘り下げていく追随者が、本書の後には続いて出てくるのではないかと思わせる。関東平野を流域思考で説明するなら、いい対照になるのはもしかすると大阪平野ではなく、例えば瀬戸内アーキペラゴ地帯ではないだろうか。あるいはまた、世界的には、似たようなサイズの湾を抱く、サンフランシスコ都市圏と東京圏を比較するとどうなるのか?連想は広がる一方である。
三宅 秀道(経営学者)