『ジェンダーと脳──性別を超える脳の多様性』 女性的な特徴と男性的な特徴が入り混じったモザイク

2021年8月31日 印刷向け表示
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ジェンダーと脳――性別を超える脳の多様性

作者:ダフナ・ジョエル ,ルバ・ヴィハンスキ
出版社:紀伊國屋書店
発売日:2021-08-31
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「女性は親切で、コミュニケーション能力が高い。他方で、男性は攻撃的で、空間認識に長けている」。性差に関するそうした主張を、あなたもどこかで耳にしたことがあるだろう。さらにあなたは、そのような主張が展開されるなかで、「女脳」「男脳」といった言葉が使われているのを目にしたことがあるかもしれない。「女脳はコミュニケーションに関わる領域が大きく、男脳は空間認識能力が発達している」という具合に。

そうした主張は、学説としても俗説としても、形を変えながら繰り返し現れている。しかし、女性と男性の性差は、本当に脳の違いによって説明できるのだろうか。本当に「女脳」「男脳」なるものが存在するのだろうか。本書は、イスラエルの神経科学者がそれらの問題に真摯に挑んだ1冊である。

著者が自らの考え方を一変させることになったのは、ひとつの実験を知ったからだという。ラトガーズ大学の研究者によるその実験では、メスとオスのラットに30分間のストレスが与えられた。すると驚いたことに、脳の一部の特徴(海馬の錐体細胞における尖端樹状突起)がメスとオスとで反転した。つまり、メスの形態がオスの形態へと変わり、オスの形態がメスの形態へと変化したのである。さらに、別の特徴(同じ細胞における基底樹状突起)に関しては、メスとオスとで新たな違いが生じることも判明した(下図参照)。
 

 ラットの海馬における錐体細胞。三角形は細胞体を、三角形から上と斜め下に伸びる線はそれぞれ尖端樹状突起と基底樹状突起を、黒丸は棘突起(スパイン)を表す。ストレス曝露後の変化は上述のとおり。(本書35頁より)

短時間のストレスを与えられただけで、脳の性差とされる特徴はこうもたやすく変わってしまう。しかも、それらの特徴に影響を与えているのはストレスだけではない。年齢、薬物、生活環境、幼少期の生育条件などの要因も、脳の特徴に無視できない影響を与えている。その点を例示したうえで、著者はこう述べる。

脳の真の性質は、その形態がきわめて変化しやすい点にある。そして、この変化のしやすさは、胎児のときから一生を通じて、性別を含めた複数の要因の相互作用によってつくり上げられるのだ。

ならば、脳にはそもそも性差など存在しないというのだろうか。いや、そういうわけではない。グループレベルで眺めると、脳の特徴にはたしかに性差が認められる。女性と男性(あるいはメスとオス)の脳をいくつも集めて、それらを比較すれば、ある領域に関しては平均して男性のほうが大きかったり、ある配線(神経接続)に関しては平均して女性のほうが強かったりする。

しかしその一方で、個々の脳に目をやると、それらの平均的な違いは意味を失ってしまう。なぜなら、すでに述べたように、個々の脳の特徴はきわめて変わりやすく、性別以外の要因によっても影響を受けるからである。だから、脳はその持ち主の性別とともに、ストレスや生活環境などのほかの要因次第で、その一部が「女性的」な特徴(女性に多く見られる特徴)になったり、別の一部が「男性的」な特徴(男性に多く見られる特徴)になったりするのである。

実際、わたしたち一人ひとりの脳は、「女性的」な特徴と「男性的」な特徴を併せ持ったものだと言える。著者の研究チームは、性差の大きい脳領域を10個選び、「際立って女性的」「際立って男性的」「中間」という3つの特徴が個人の脳のなかでどのように組み合わさっているかを調べた。すると、「際立って女性的」な特徴ばかりを持つ脳や、「際立って男性的」な特徴ばかりを持つ脳は、きわめて稀(全体の約2%)であった。反対に、大半の脳は複数の特徴を有しており、なおかつ、その少なからぬものが「際立って女性的」な特徴と「際立って男性的」な特徴を兼ね備えていたのである。

それゆえに著者は、「『真の』男脳や女脳というものは存在しない」と言う。そして、それに代えて著者が提唱するのが、「脳のモザイク論」である。

繰り返すと、わたしたち一人ひとりの脳は、「女性的」な特徴と「男性的」な特徴の独自の組み合わせから成っている。ならばいま、十分な数の特徴をピックアップして、「際立って女性的」な特徴は黒、「際立って男性的」な特徴は白というように、グレースケールを使ってそれらに色を塗ってみよう。すると、個々の脳は、黒と白とグレーの独自のモザイク模様になっていることがわかるだろう。全体的に女性の脳には黒が多く、男性の脳には白が多いが、すべて黒の脳や、すべて白の脳はほとんど見当たらない。それぞれの脳は、たいていは黒と白の両方を含みながら、独自のパターンをなしている。「大半の脳はそれぞれ男性的な特徴と女性的な特徴の独自の《モザイク》から成る」と著者が主張するのは、そのような意味においてである。

というのが、脳と性別に関する著者の見方のポイントである。著者はそれに続けて、人の心と行動もまたモザイクであると論じている。そしてそのうえで、本書の後半部では、なにかと女性と男性に分けて考えるバイナリー思考や、わたしたちの日常に潜んでいるジェンダー・バイアスに批判の目を向けている。

「ジェンダーのない世界へ」を掲げる著者の議論は徹底したものであり、その内容に面食らってしまう読者もいるかもしれない。ただ、その帰結に対して感情的に反応するのではなく、あくまでも丁寧に議論をたどっていけば、その内容の多くに首肯できるのではないか。わたしなどは、「私たちの社会では、育児における母親の役割が強調され、父親はとかく蚊帳の外に置かれがちだ」という指摘に、膝を打つ思いであった。

わたしたちの脳と心はさまざまな特徴のモザイクから成っている。だから、ボクシングを愛する女性も少なくないし、育児・家事の中心を担っている男性もたくさん存在する。本書は、そんな当たり前の事実に目を向けさせてくれると同時に、その理由をしっかり説明してくれる。まさに性別を問わず、多くの人にとって参考になる好著であろう。

※図版提供:紀伊國屋書店出版部

 

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