想像以上に広くて複雑な深海という世界──『深海学―深海底希少金属と死んだクジラの教え』

2022年7月5日 印刷向け表示
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作者: ヘレン・スケールズ
出版社: 築地書館
発売日: 2022/6/10
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深海は調査が進んでおらず、海底よりも月の表面の方がわかっていることの方が多いとさえ言われる世界だ。だが、近年深海用の潜水艇などの高性能機材が開発され、深海が想像されてきたより広く複雑な世界であることが明らかになってきた。本書はその書名通りに、深海にまつわるさまざまなトピックを扱った一冊だ。

生物の話からはじまって、地球温暖化と深海の関係性、深海底ビジネスが深海に与える深刻な影響とその対抗策など、深海の実態を明らかにしている。特に、著者の専門は海洋生物学で、深海の生物を扱っている章の筆致は飛び抜けている。深海は地上と異なる常識が展開する世界だから、そこで起こる出来事の描写は信じがたいものばかり。あまり表に出ることのない世界だが、だからこそ、多くの人が楽しめるだろう。

深海に住む生物たち

なぜ深海が地上と異なる常識と情景が展開するのかといえば、その大きな理由は「水圧」と「暗さ」にある。たった10メートルでも人間が素潜りすると肺は通常の大きさの半分に圧縮され、20メートルで4分の1まで押しつぶされる。深海層では水圧は水面の400倍で、地上の生物のつくりではひとたまりもない。

深海のもう一つの過酷な条件は太陽光がほぼ届かないことで、光合成を行うことはできない。光合成ができなければ、光合成で生きる植物を食べる生物もいないはず。こうした理由から、かつては深海には生物はほとんどいないのではないかと思われてきたが、実際にはこの光届かぬ深海に見事に適応した生物は無数に存在する。ナマコにヒトデに貝類に。彼らは深海なりのエネルギーの補給手段を持っているのだ。

そうした深海の生物らがエネルギー源にするものの一つは「マリンスノー」と呼ばれるもので、界面から降ってくる植物プランクトンや動物プランクトンの死骸や糞である。深海において食物連鎖の底辺にいる動物たちが食物にするのは基本的にこのマリンスノーで、たとえばムンノプシスという等脚類は体の何倍にもなる毛の生えた腕があり、それを使って沈んでくるマリンスノーをとって、食べている。

深海特有といえるのがゼラチン質の体の生き物たちで、彼らの体は柔らかくふわふわとしているのでその一生を通して硬い物体の表面にあたらず、水中を浮いて過ごす。ゼラチン質の体は簡単に作り上げることはでき、その維持コストは低いから、餌の少ない深海で生き延びる可能性は高くなる。一方、あまりに脆いので魚の尾に少し触れただけでも組織が崩壊してしまうこともある。

熱水噴出孔

深海で生命を育むシステムとしては、他にも熱水噴出孔の存在がある。これは地熱で熱せられた水が噴出する亀裂のことだが、熱水噴出孔の集まる熱水噴出域は深海中に存在するとみられている。下記はその一例。

熱水噴出孔生物の中には、熱水噴出孔から湧き出るメタンや硫化水素エネルギーを取り出して成長や細胞分裂に利用する微生物もいれば、二酸化炭素から糖類をつくるものもいる。口も消化管もないが硫黄を酸化するバクテリアを大量に飼ってエネルギー源に変えている生物がいたり、バクテリアではなく微生物を体に住まわせる生物もいたり──と熱水噴出孔を前提とした、独自の生態系・共生関係が築き上げられている。

とはいえ、熱水噴出孔は不安定で無くなってしまうことも多い。短命の種として終わらないために、彼らは別の熱水噴出孔へと放浪していく必要もあって──と、この世界ならではの苦難も語られている。

マッコウクジラ

ずっと住んでいるわけではないが、定期的に深海へと潜っていく生物も存在する。その代表的な存在はマッコウクジラだ。彼らの移動範囲は水深2000メートルにまで及ぶが、それを支えるのは特別な体の仕組みだ。

彼らの体重の5分の1は膨大な量の血液が占め、粘度は高く、人間が腕を入れられるぐらい太い動脈や静脈のなかを流れている。粘度が高いのは、酸素と結合するたんぱく質のヘモグロビンの体積が多いからで、ミオグロビンというたんぱく質と合わせて、体が必要なときに酸素を放出する。

また、潜水する時には心拍数が毎分5回程度と極度に低下し、蓄えた酸素の消費量を減らしている。なぜそこまで酸素を効率化し、体にたくわえてまで深海に戻るのかといえば、そこにはイカなどの豊富な食料があり、水中の酸素含有量が少ないために動きの鈍い獲物たちに対して大きな優位性を持つことができるからだろう。クジラはただ深海の動物を食べるだけでなく、死んだあとは海底に沈んでいくことで自分自身が食料となって生態系を循環させる。クジラは深海生物を象徴するような生物だ。

海洋性の魚の限界の深度

個人的におもしろかったのが、海洋性の魚の限界の深度まで潜るシンカイクサウオについての記述だ。この魚は水深8000メートル付近まで潜ることができるが、それ以上はいけない。深さ8000メートルの水圧は水面の800倍で、1平方センチあたり800kgもの負荷がかかる計算になる。地上の生物ではひとたまりもない。

本来ここまでの水圧がかかるとタンパク質の立体構造は乱れて機能不全に陥ってしまう。シンカイクサウオのような魚はこうした極端な水圧に耐えるため、体の組織にトリメチルアミンオキシド(TMAO)という化学物質をためこんでいる。この化学物質は基質と結合して、水圧によって体を構成するタンパク質の合間に水が侵入するのを防ぎ、体が立体構造を保つのを守ってくれる。深い場所に住む魚ほどTMAOの濃度は濃い。しかし、魚の体に詰め込めるTMAOの量には限界があり、その限界の水深が8200メートルになるようなのだ。

YouTubeにはJAMSTECによって撮影された動画も上がっているが、8000気圧の世界でこれだけしっかりとした作りの魚が優雅に泳いでいる情景は、感動的なものがある。

おわりに

本稿では深海に住む生物の話を中心に紹介したが、他にも深海と地球温暖化の関係について。深海生物たちから作られる新たな薬の可能性について、中深層での漁や石油施設、ゴミを深海に鎮める計画がもたらす長期的な影響など、人目につかない深海が、我々の生活といかに密接につながっているのかが語られている。

深海に興味をもつひとすべてにおすすめしたい一冊だ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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