警察庁の元キャリア官僚だった小説家、古野まほろさんの『老警』の文庫解説を担当した。書き始めたその日、安倍元首相の殺害事件が起こる。現在、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治家との関係が喧しく報道されているが、当初、この小説の背景を調べるために読んだ著者のノンフィクションで語られる警察官僚と地方警察の関係が生々しく感じられて、原稿を全部書き直した。こんなに衝撃的な事件と小説のシンクロニシティは二度とないだろうと、著者、出版社の了承を得て解説をアップする。
2022年7月8日の昼頃、本書『老警』の文庫解説を書き始めたちょうどその時、ニュース速報がスマホに届いた。
「安倍晋三元首相、奈良市で応援演説中に銃で撃たれ、心肺停止」
テレビを付けると、すでに臨時ニュースでその瞬間の映像が流されていた。
参議院選挙を二日後に控え、自民党候補の応援演説を行っている最中、安倍元総理は背後から狙撃されその場に倒れ込んだ。容疑者は即座に拘束され、安倍氏は心肺蘇生措置を受けながらすぐに救急搬送されたが、当日夕刻に死亡が確認されたと発表があった。
元首相の応援演説ともあって、多くの人が見ている中での蛮行は様々な角度からスマホによって録画され、即座にSNSに流された。警視庁のSPも奈良県警も厳重な警固していただろうなかで、至近距離から発砲され殺害されるというのは警察の大失態である。その夜開かれた奈良県警幹部と、翌日の奈良県警本部長の記者会見を観た。
幹部の会見は真ん中に刑事部長、両隣には警備部参事官と捜査第一課長が並び、記者たちの質問に答えていた。狼狽えた様子は見られなかったが、歴史に残る大事件に立ち向かうことを嚙み締めているような言葉に、彼らの心情が透けて見えたような気がしたのは“古野まほろ”の小説を読んでいたからだ、と気づいた。
また、奈良県警本部長が「警護・警備に関する問題があったことは否定出来ない」と語り、慚愧に耐えないといった様子に、警察庁警備局に長く在籍し要人警護に従事していた経験を生かせなかった苦衷を慮ってしまうのも“古野まほろ中毒”症状の一端かもしれない。
元キャリア警察官で、警察署、警察本部、海外、警察庁などで勤務し、警察大学校主任教授でもあった“古野まほろ”というミステリー作家が描く警察小説が、長く大流行している「警察小説」のジャンル内でも異質であるのは、この特異な経歴による。
小説の他にも、自らの経験を通しての警察の仕組みや警察官の人生などを解説した著作も多い。
『警察官僚―0.2%未満のキャリアの生態』(祥伝社新書)では、全国の警察官26万人超のなかにわずか500人ほどしか存在しない「キャリア警察官」の生々しい生き様を暴露している。この本に書かれた「警察本部長の特異性」の項を読むと、今回の事件における奈良県警本部長の決意や忸怩たる心情を想像することができるだろう。“キャリア警察官”のプライドの高さは責任感に比例するに違いない。
ひとたび重大事件が起きると現地の警察に捜査本部が立ち上がる。安倍元首相暗殺のような歴史に残るような大事件は稀だが、無差別殺人事件などが勃発すれば、地元の警察署が一丸となって捜査に当たる。
『老警』は、日本のどこにでもあるようなA県で、長期間自宅にひきこもっているある警察官の息子、伊勢鉄雄(33歳)の近況から話が始まる。
少し長い序章ではこの鉄雄の生育歴や病歴、妄想の質、現状、わずかな生活の変化が語られる。大手出版社からデビューしたプロの作家を自任する伊勢鉄雄は、何もかもが思い通りにならないことにいらだっていた。担当編集者はつかまらず、近くの小学校は運動会の練習で騒音をまき散らす。父親が作る朝食は相変わらず母さんのようにはならない。ブチ切れて……捨て台詞を吐く。
「流行りの拡大自殺とか、やらかしちゃうかもだからねえ、そうだろ?」
高卒のたたき上げである父親の伊勢鉄造(59歳)は息子の扱いに悩んでいた。中学受験が引き金となり、母親への家庭内暴力は母を遠ざけることで収め、息子が関与したのではないかと疑える付近で起こった事件は立場をつかって”もみ消した”。正式な診断名にも耳をふさぎ、本格的な“ひきこもり”が始まった。
同時にA県警察から任命された〈少年警察ボランティア〉冬木雅春(65歳)は独白する。東大法学部を卒業し“一流企業”でそれなりの地位に就いた人間が、娘の挫折で地元に戻ってこざるをえなかった。
そしてもう一人の事件の当事者、その圏内を管轄する駐在所長である津村茂警部補(59歳)のひととなりが紹介され、市役所から津村警部補へ自傷他害の可能性のある相談者の対応が持ち込まれる。
これらの事案がひとつでも解決できていたら、A県五日市市・五日市小学校での惨劇は防げていただろう。
安倍元首相の今回の事件も、どこか日本の治安や安全に対する過信があったのではないだろうか。上手の手から水がこぼれた時、大事件とは起こるものなのかもしれない。
伊勢鉄雄は教師、保護者、児童を含む19人を殺傷するという無差別殺人事件を起こし、津村警部補の拳銃を奪って彼を撃ち、最後は自らの放った銃弾で自殺した。それもその犯行声明を、奪った警察無線機で中継されるという、警察にとっては大失態であった。
さらにその責任を負って父親のA県警察本部警務部給与厚生課次席、伊勢鉄造警部も自死した。A県警察本部の〈警務部長〉、キャリア警察官である佐々木由香里警視正(42歳)が捜査一課に先んじて事情聴取をした直後のことであった。由香里に対する捜査本部および捜査一課の非難が渦巻き、彼女はこの捜査から外れるよう刑事部長より哀願される。
それを受け入れた由香里だが、この事件の一連の動きにある違和感を持ち独自に捜査を開始した。
ここからは一気呵成に物語は進む。この事件は通り魔による無差別殺人事件としてはシンプルだ。精神に病を持ち長くひきこもっていた青年が、外からの攻撃を受けていると被害妄想を抱き、排除するために小学校の運動会を襲撃し、多数の死傷者を出したというものだ。犯人は自殺しているので、あとは敗戦処理のみのはず。なぜA県警察本部ナンバー2である由香里を頑なに排除しようとしているのか。
異例ではあるが、ここから由香里は女警の仲間である五日市警察署生活安全課長、八橋響子(40歳)と協力し、真相に近づいていく。
銃乱射事件のような無差別殺人が頻繁に起こるアメリカと違い、日本ではこの手の犯罪は格段に少ない。とはいえ1999年の池袋通り魔事件、下関通り魔事件、2000年の西鉄バスジャック事件や2001年に発生した大阪池田小児童殺傷事件など、犯人の持つ被害者意識の高まりが、やがて世間に対する軽蔑や嫌悪へと転化し、広く社会全般へ拡張された事件は起こっている。(犯罪事件研究俱楽部『日本凶悪犯罪大全217』(文庫ぎんが堂))伊勢鉄雄が起こした事件も一見するとこの範疇に入ると思われる。
インベカオリ★『「死刑になりたくて、他人を殺しました」無差別殺傷犯の論理』(イーストプレス)は無差別殺人犯に直接かかわる研究者や支援者、宗教家など10名へのインタビューで構成されている。
その中で精神科医の斎藤学による現代の無差別殺人犯の心理分析に伊勢鉄雄の心情を理解する上での一端を見た。斉藤は秋葉原無差別殺人事件の犯人、加藤智大の自著から「表現者になりたい」という欲望、野心が犯罪に結びつくと分析している。鉄雄の「作家になって有名になる」からはじまり、凶行の後に警察無線機を奪って犯行声明を出したことは、「表現者」としての自己満足を得たかったからではないだろうか。
だがこの事件にはそれだけではない事情が隠されている。現場の警察官でなければわからないヒエラルキーやこんがらがった人間関係を由香里は少しずつ解き明かした。
もちろんこの事件は、罪のない教師、保護者、児童が被害者となった許されない凶悪犯罪であった。だが辿り着いた伊勢鉄雄の思いの中には、パンドラの箱の底に残されていた希望の妖精がいたように思う。
事件とは多面体である、とつくづく感じる。幾重にも折り重なった真実にたどり着くまでの物語をどうか楽しんでほしい。
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