経済物理学の発展
その後、経済物理学の研究者の数も増え、経済学者とのつながりも深くなり、また、ビッグデータがらみで情報学の研究者や、統計解析の専門家などもこの分野の研究に絡んできて、様々な研究成果が蓄積されている。その一部は、本書の中でも取り上げられているが、それは氷山の一角に過ぎない。そこで、本書のテーマである市場に関する研究として、ディーラーモデルのその後の発展とPUCKモデルについて、是非この場を借りて紹介しておきたい。
ディーラーモデルはその後、着実に進歩し、現在では、通常の市場の変動の基本的な特性はほぼ全て再現できるようになり、また、日銀の介入などの非常に特殊な状況での市場変動も、モデルのパラメータを調整することで、ほぼ再現できるようになっている。例えば、介入のタイミングを変えることで、介入の効率がどの程度変わるか、というような問題を数値シミュレーションによって解くことができる。
現実の市場変動を説明するために最も重要なディーラーモデルの特性は、トレンドフォローである。例えば、バブルのように価格が上昇を続けるとき、その上昇が続くことが保証されているならば、そのトレンドにのって売買をすることでディーラーは利益を上げることができるので、トレンドフォローは合理的である。一方、トレンドが反転するのがわかっているならば、トレンドフォローとは逆の、逆張りと言われる戦略にすることが合理的である。問題は、トレンドがいつ反転するのかを誰も事前には知らないことで、そのためにディーラー達は、相互の疑心暗鬼の中で、トレンドフォローと逆張りの戦略を随時切り替えているのが 現実の市場の姿である。仮に、市場が純粋にランダムウォークに従うならば、売買による利益は見込めないので、手数料のかかる売買をしないことが最良の戦略となり、市場は流動性を喪失することになる。ディーラーが市場変動はランダムウォークではないと信じるからこそ、市場の取引が活発になるのである。
市場の中のトレンドフォローの強さを市場価格の時系列から定量的に評価できるようにしたのが、PUCKモデルである。PUCKとは、Potentials of Unbalanced Complex Kinetics(不安定複雑動力学ポテン シャル)の略で、通常のランダムウォークモデルに一つのポテンシャル項を付け加えるだけで、市場変動の特性のほとんど全てが記述できるようになる非常に優れた数理モデルである。このモデルを用いると、市場価格の変動が示すフラクタル的特性だけでなく、ボラティリティ・クラスタリングや暴騰や暴落、さらには、インフレやハイパーインフレのようなマクロなスケールの現象も統一的に理解することができる。特殊な場合として、ノーベル経済学賞の対象となったARCHモデルも包含する懐の広いモデルであることがわかっており、リアルタイムで市場の時系列データを分析することにも使われている。現在、金融市場で取引をする実務家にとってのプラットフォームであるブルームバーグ端末から、アプリの一つとして、このPUCKモデルを使って自分が関心を持つ市場の状態を分析できるようになっている。経済物理学の成果は、既に広く実務で応用される段階に入っているのである。
もちろん、経済物理学の研究は市場変動以外にも広がっている。実務にも役立つレベルになっている事例として、企業の取引ネットワーク解析による成果を紹介しよう。企業の売上や成長率の分布が正規分布ではなく、フラクタル性を有するベキ分布に従っていることは、経済物理学の初期の段階から知られていたが、最近、企業間の取引関係のネットワーク構造が観測されるようになり、その分野の研究が大きく進展している。例えば、帝国データバンク社は、国内約100万社の企業の取引相手を一社一社丁寧に調べ上げ、どの企業からどの企業にお金が流れるのか、そのネットワークデータを蓄積している。このビッグデータを丁寧に分析して経験則を見つけ出し、さらに、その経験則を満たすような数理モデルを構築すると、ネットワーク構造だけを与えただけで、それぞれの企業の年間売上額や企業間の取引金額をおよそ推定できることがわかってきた。この発見は、既存の経済学の企業に関する研究の常識を超えたものだが、既に、内閣府がホームページとして公開しているビッグデータ解析ツールRESAS(地域経済分析システム)の中で使われている。ある地域に流れ込んでくるお金がどの地域から流れ出ているのかを推定する必要があるとき、この企業ネットワークモデルを使うと、欲しい量を推定することができるからである。
これ以外にも、この企業データは、いわば惑星の観測データのような宝の山であり、東京工業大学帝国データバンク先端データ解析共同研究講座を中核に、日々、企業の物理に関する研究が進められている。
今後の展望
社会の高度情報化によって、あらゆる所でビッグデータ解析が必要とされる時代になってきたが、経済物理学はビッグデータ解析の先駆的成功事例を多数生み出しており、今後はさらに、実務への応用を視野に入れた研究が進むと期待している。
そのような環境の中で、私が今必要だと考えているのが「市場変動観測所」である。気象観測所や地震観測所と同じように、市場変動を客観的に観測し研究する公的な機関を作り、その観測データを公開することで市場の物理が大きく発展し、その成果として、社会を安定に豊かに維持できるようになると考えているからだ。本書でも、政府が投資する金融予測センターの設立が必要だという主張がされているが、全く同感である。このプロジェクトは、日本学術会議が重要と認めた第22期学術の大型研究計画に関するマスタープランの中には選ばれてはいるが、実現のために必要な数10億円という金額の予算化ができていない、という段階である。
科学革命の源となった惑星の観測は、莫大な利益を生む源泉である航海技術の必須項目として発展し、その観測データは長い間公開されず、天体モデルも国家的な機密事項だった。しかし、そのデータから普遍的な法則が見出され、モデルが社会に広く使われるようになって、研究成果やモデルを秘密にして個別の利益を狙うよりも、公開して社会全体の利益をめざす方が有意義であると社会的に認識されるようになり、天文台が各国に建設され、私たちの宇宙に対する理解が深まった。残念ながら、今はまだ、市場データの解析をするというと、「それでどれくらい儲けられるのか」というようなレベルの返事が返ってくる ことが多い。しかし、広く長い視野に立てば、膨大な市場データを科学的に分析することで、市場の基本的な特性が理解され、どのようにすれば市場を安全安心に誰もが使えるようにできるのか、社会の中のお金を有効に活用するにはどうしたらよいのか、という万民の利益につながるような研究成果が出てくるに違いないと私は期待している。
経済物理学の種が撒かれてから芽が出るまでに10年、そこから実を結ぶまでにさらにおよそ10年かかった。この研究が本当に社会の役に立つようになるには、もう少し粘り強く研究を進める必要がある。
(ソニーCSLシニアリサーチャー・明治大学先端数理科学研究科客員教授)