『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』解説の試み by 杉山 登志郎

2016年10月11日 印刷向け表示
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身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

作者:べッセル・ヴァン・デア・コーク 翻訳:柴田 裕之
出版社:紀伊國屋書店
発売日:2016-10-11
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本書の著書、ヴァン・デア・コークはエピローグの冒頭で、次のように書く。
「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」

本書は、凡百のトラウマに関する啓発書とはちがう。本書は、自伝的な要素を有し、著者の精神科医としての、そしてトラウマに関する世界的な研究者としての歩みがそのまま記されている。オランダ系移民であるヴァン・デア・コークの父親は、ナチスに対し批判的であったがためにナチスによる投獄を経験し、母親は幼児期のトラウマの経験を持つことが暗示され、家族の中に深いトラウマがあったことが開示される。彼の歩みは、トラウマの再発見から始まる、今日のトラウマ研究の歴史そのものなのだ。

1978年、駆け出しの精神科医であったヴァン・デア・コークが、ベトナム戦争の帰還兵が示す凄まじい後遺症に圧倒され、トラウマのもたらす多岐にわたる脳への影響に気付くところから本書は始まる。トラウマについて、精神医学が発見と忘却を繰り返してきたことを彼もまた再発見し、1980年に出版されたアメリカ精神医学会作成の「診断・統計マニュアル 第三版(通称DSM-Ⅲ)」に初めて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の概念が登場したことをきっかけに、効果的な治療法を見つけるための体系的な研究を開始する。

さらに彼は、慢性のトラウマや強烈なトラウマにさらされた脳が通常とは異なる働きを作り上げて行くことを、最新の脳科学や脳画像法を駆使して解明して行く。そうして積み上げられた実証を伴うデータの集積によって、一見脈絡のない不可思議な症状群が、すべてトラウマによって引き起こされた脳の変化に基づくものであることが示され、なぜ従来の治療法が無力であるのかも、脳の働きに遡って明らかになる。また薬物療法の限界も示される。

重度のトラウマ、特に子ども虐待などの慢性のトラウマによって生じる様々な重症な臨床像である、複雑性PTSDと発達性トラウマ障害が、なぜかアメリカの精神医学の主流から無視され続けたこと、さらに抗精神病薬や抗うつ薬の処方のみが膨れ上がって行く状況も克明に語られる。その上で、不可能とも思われたトラウマの後遺症からの回復を可能にする様々な方法が、これも実証を伴った研究によって今日の到達点として描かれる。

本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑問を感じつつそのままになっていた問題や、断片的な理解のままになっていた問題のほぼすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍にも広がったような体験をした。

本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。それはこんな人々である。ドメスティック・バイオレンスや子ども虐待に向き合わざるを得ない人、少年非行や少年犯罪、薬物中毒、性被害・性加害、社会的養護、里親・里子、貧困、すべての精神疾患、怠学、不登校に関わる人々。つまり学校教師、ソーシャルワーカー、児童養護施設や児童自立支援施設で働く人、精神科医、臨床心理士、弁護士、裁判官、警察官、検察官そして政治家。まさに私たちの社会は今、トラウマを強く意識しなくては何もできない時代を迎えようとしているのである。

本書の圧巻は、なんといっても第5部「回復へのさまざまな道」である。本書の冒頭でヴァン・デア・コークは3つの方法があるとしている。
1 自分に起きていることを知り、それを許容しつつトラウマ記憶を処理するトップダウンの方法
2 不適切な警戒反応を抑制し、脳の情報処理を変える方法
3 トラウマに起因する無力感などに立ち向かうボトムアップの方法
どれが有効なのかはやってみなくては分からないし、一つだけではうまく行かないことが多い、従って組み合わせが必要であるとしている。

第5部で取り上げられているのは、トラウマからの回復のために工夫、開発されてきた実に広範な様々な治療方法である。

最初に、言葉での表現として、自分に手紙を書くという自由筆記法の可能性が取り上げられる。次の章ではEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が紹介されるが、自分が実施していたグループセッションの参加者の中に、併行してEMDRを受けた患者がいて、その回復ぶりに驚嘆したヴァン・デア・コーク自身が早速研修を受けに行き、その効果に驚くというエピソードが紹介されている。これは私自身の経験そのものでもある。次がヨーガである。ヨーガこそボトムアップの強力な方法であり、マインドフルネスや呼吸法との組み合わせによって、細心の注意を払いながら治療に織り込んで行く具体的なやり方が示される。

ヴァン・デア・コークのすばらしいところは、これらの効果を直ちに最新の脳画像研究を用いて立証して見せることができることだ。EMDRの効果検証のみならず、ヨーガに関しても自己調整の中枢である脳内の島(とう)と呼ばれる部位の活性化が示されている。次に取り上げられるのは多重人格への内的家族システム療法の紹介である。我が国では自我状態療法として行われている方法とほぼ同じ治療手技である。

次いでPBSP療法が紹介される。これはグループ精神療法を用いて、失われた愛着を想像の中で取り戻すという大変に興味深い臨床的試みである。我が国の治療者のために補えば、嶺輝子(みね・てるこ)が独自に開発したホログラフィートークが類似のアイデアで構成されていて、この手法に精通すれば、愛着の修復の効果が同等に得られると考えられる。次に登場するのがニューロフィードバックを用いた脳の反応の正常化である。この部分に関して私は未経験であり、ぜひ学んでみたいと強く思った。最後に紹介されるのが、演劇や声劇によるトラウマへの治療効果である。こちらも私は未経験であるが、その効果に関してはなるほどと実感ができるものばかりである。

ヴァン・デア・コークは特定の治療法を勧めてはいない。そのいくつかを組み合わせることが必要で、本人に合った治療法を選び、脳や生体の起こすトラウマ反応に細心の注意を払いつつ実践して行くことによって、薬に頼らず確実な回復を得ることができることを実証しているのである。

本書は30年間に渡るヴァン・デア・コークの臨床と研究の集大成であり、今日におけるトラウマの信頼できる教科書であり、さらに彼自身が冒頭に書いているように、「手引きとしてだけではなく……呼びかけとして」書かれた警告の書でもある。なぜ警告が必要なのか。アメリカ社会が、ヴァン・デア・コークの望むような、トラウマを生み出す状態への早期からの社会的対応によって、将来の犯罪や、精神疾患や、社会的不安定を軽減させ、やがては社会的予算を減らすことができる社会とは別の方向に向かって進んでいるからである。本書の解説を書いているこの時期に、アメリカ大統領選ではトランプ氏の快進撃が続いている。トランプ現象もまたアメリカである。アメリカは、新自由主義による格差社会の中で、ヴァン・デア・コークが生涯をかけて取り組んできたトラウマからの回復を目指す社会に向かっているとは言いがたい。

遙かに小さな規模とはいえ、私もまた子ども虐待の臨床を通して、一般の人々のみならず、いわゆる専門家がトラウマの問題にあまりにも鈍感であることに驚かされてきた。私もまた、子ども虐待の臨床を通して、トラウマがもたらす激烈な臨床像に強い衝撃を受け、従来の治療法では歯が立たないという経験をし、さらに薬物療法の限界にも気付かざるを得なくなり、有効な複雑性PTSDの治療方法を模索してきた。私自身も戦中派の両親を持ち、そのトラウマ体験にトラウマ臨床を通して気付かされたという経験を持つ。

ヴァン・デア・コークは何度か、アメリカの精神科医が、薬だけ処方して後は何もしないことや、余り有効ではないことが明らかになっている精神療法を延々と続けていて無作為であることに苦言を呈している。薬に関しては、その処方量がものすごく膨れ上がっていて、アメリカの精神保健予算を圧迫しているのにもかかわらず改善する気配がないと指摘する。これらがまた我が国においても全く同様の状況が生じているのである。無効な治療法を延々と行っていることも、薬の処方のみに頼り、その結果、多剤大量処方が社会的な非難をあびるまでに至っていることも。さらにはトラウマに起因する精神症状に関しては誤診の山である。精神科できちんとした診断や対応が全くといって良いほどなされていない。

私は我が国が、ヴァン・デア・コークが目標としてかかげる、子どもの健康なそだちへの予算を増やし、虐待の連鎖を断ち切るために家族への包括的な早期からの有効な支援を実現し、将来の社会的予算を減らすことができる社会に向かってほしいと切に願う。だが実態はどんなものだろう。形だけの対処が横行している様は、まるで旧帝国陸軍の員数主義そのままである。ヴァン・デア・コークの恩師エルヴィン・セムラッドが「最大の苦しみの源泉は自分自身に語る嘘である」と言ったように、あることを見て見ぬふりをするという状態が、子どもを巡るあちらこちらで目につくのは私だけなのだろうか。我が国はどちらの方向に向かうのだろう。

浜松医科大学児童青年期精神医学講座 杉山 登志郎 

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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