『みんなの「わがまま」入門』小さな声を社会につなぐ方法論

首藤 淳哉2019年06月11日 印刷向け表示
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みんなの「わがまま」入門
作者:富永京子
出版社:左右社
発売日:2019-04-30
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「自分のやっていることは正しい」と信じて疑わない人が苦手です。
大学生の頃の話です。授業が始まるのを待っていると、見慣れない男女のグループが教室に入ってきてビラを配り始めました。何が書いてあったか細かい内容は忘れてしまいましたが、手元のビラに目を落としていると、パァンという高い音とともに「失礼だろこの野郎!」という怒鳴り声が響き渡ったのです。

声の主は明らかに女性でした。驚いて振り向くと、クラスメイト(こちらは男)が頰を押さえて女性を睨みつけているではありませんか。どうやらクラスメイトは配られたビラをくしゃくしゃっと丸めて捨てたらしいのです。それを目にした活動家の女性(ビラはある左翼セクトのものでした)が腹を立ててビンタをお見舞いしたというわけです。

イデオロギーだとか政治活動だとかについて考えるときに、ぼくはいつもこの時のことを思い出します。クラスメイトのふるまいはたしかに失礼ですが、なによりもこの活動家は、自分の主張が他の誰かにとってはまったく興味のないことかもしれない、ということに気がついていません。ラジオの番組づくりもそうですけど、どんなに自分が面白いと思っていても「クソつまんねー」とリスナーから言われてしまう可能性は常にあります。ビラだってそう。相手に渡った途端、ちゃんと読まれるかもしれないし、紙ヒコーキや洟紙になるかもしれない。その可能性を考慮せず一方的になされる主張は、ただの押し付けに過ぎないのではないでしょうか。

だから、ちょっと前のめり気味に強い言葉で正しさを主張してくる人を前にすると、警戒センサーが働いてしまうのです。ましてやそういう人たちが集団になっているのに出くわしたりすると、思わず後ずさりしてしまいます。

ええと、もっとはっきり言ってしまいましょう。つまりは「デモ」とかが苦手なんです。抵抗あるんです。なぜかぼくはデモに誘われることが多いんですけど(なぜ?)、これまで個人で参加したことはいちどもありません。

デモに抵抗感をおぼえる自分を掘り下げてみると、「それをやったからといってどんな効果があるんだよ」とか「そんな簡単に世の中変わらねーよ」といった醒めた気分が横たわっていることに気がつきます。デモや社会運動はこれまでなんども取材してきました。だから参加者の顔や雰囲気も具体的に思い浮かべることができます。にもかかわらず、そこに自分自身が参加する姿だけはまったくもってイメージできないのです。

本書は、ぼくと同じようにデモや社会運動に懐疑的な人たちにぜひおすすめしたい一冊です。著者は社会運動の研究者。社会運動をしている人に聞き取りをして、人々が社会運動を行う理由を分析するのが仕事なのですが、著者自身は社会運動に参加することにためらいを感じています。

そのためらいをおぼえる理由を、著者は「わがまま」というキーワードで説明します。学校や会社に対してなにか不満や主張があっても、多くの人は声をあげることをしません。なぜなら「みんな我慢しているんだから」とか「他の人に迷惑だからやめろよ」というように、周囲から「わがままなやつ」扱いされてしまうから。そう、社会運動とはある種の「わがまま」を言うことなのです。

ただし本書で言うところの「わがまま」は、「自己中」や「自分勝手」といった世間一般での使われ方とは、ちょっと違う意味合いを持っています。
「自分や他の人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」それが本書における「わがまま」の定義です。

そもそもぼくたちはなぜ他人に対して「あいつは自己中だ」とか「ずるい」と感じてしまうのか。それは「みんな一緒、平等であるべきだ」という考えが根底にあるからです。でも、本当にぼくたちは「みんな平等」なのでしょうか?

本書は「日本がもし30人の教室だったら」と考えてみることを提案します。
日本全体が30人の教室だとすると、生徒の構成は以下のようになります。
・ ひとり親世帯の人は2人
・ 発達障害の可能性がある人は2人
・ LGBTの人は3人
・ 貧困状態にある人は5人
・ 世帯年収1000万以上の人は3人
・ 外国籍の人は1人

ここからわかるのは、「クラスのみんな」は、思っている以上に多様だということ。ぼくたちの考える「ふつう」はいわば幻想なのです。その「ふつう幻想」に寄りかかって、ぼくらは違和感を訴えている誰かのことを「わがままなやつ」と切り捨ててしまっているかもしれないのです。

「わがまま」が生まれた背景を丁寧に紐解いてみれば、「ふつう幻想」に縛られて苦しい思いをしている人の存在に気づくことができるかもしれません。もしかするとその人を救うことだってできるかもしれない。つまりひとりの「わがまま」は、みんなの「それな!」につながっている可能性があるのです。

著者は本書で非常にわかりやすく社会運動の持つ現代的な意義を説いています。読みながらいくつもの「目からウロコ」がありました。たとえば、デモに抵抗をおぼえる理由として「社会は簡単には変わらない」という醒めた思いがあると述べましたが、これは裏返せば、社会運動に過大な期待を抱いているということでもあります。

著者はある社会運動をしている人から「社会運動って失敗ばかりですけど、長い目で見るとずいぶん変わってますよ」と言われたことがあるそうです。たしかにそうかもしれません。さまざまなハラスメントやマイノリティーの権利などに対する社会的なセンサーの感度は、昔に比べれば格段に上がっています。ひとつひとつの声は小さくても、長い目で見れば、社会は確実に変わっているのです。そう考えると、社会運動にすぐに成果を求めること自体、間違っているのかもしれません。

ただちに結果が出なくても、誰かの「わがまま」をめぐる議論を通じて、いろいろな考えが出てくること。このことがとても重要です。社会運動ではこれを「オルタナティブ」(選択肢、代替案)と呼びます。ぼくたちが暮らす社会の未来の選択肢を可視化すること。これも社会運動の大切な役割のひとつです。

当初は小さな異議申し立てとして始まったことが、次第に一般の人々にも広まって行き、やがて社会の常識になったり制度として整備されたりといった例は過去たくさんあります。ぼくたちはもっと気軽に、そして自由に「わがまま」を言っていいのかもしれません。同時に、遠慮がちに小さな声で発せられた「わがまま」を聞きとることのできる耳も持っていたいと思うのです。

ちょっとした疑問や違和感。「もう嫌だ」「苦しいよ」という思い。
日頃から感じていることや思ったことを誰もが自由に表明して、周囲がそれを受け止める。そんなやりとりが当たり前になれば、孤独に追い詰められた人が社会に刃を向けるような事件もなくすことができるかもしれません。いまぼくたちに必要なのは、「わがまま」に対する感受性を磨くことではないでしょうか。

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