『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』

2021年1月27日 印刷向け表示
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不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学 (新潮選書)

作者:森本 あんり
出版社:新潮社
発売日:2020-12-16
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森本あんり氏は神学者で、その研究内容は必ずしも一般向けとは言えない。著作で扱っているのも、キリスト教の教義論争がメインコンテンツだ。なのに、その内容は、いつも同時代の問題意識にぴったりとシンクロしている。『反知性主義』しかり、『異端の時代』しかり。

今回の『不寛容論』も、まさにそういう本だ。

日本人はなんとなく、「キリスト教もイスラム教も、一神教で凝り固まっている連中って独善的だよね。それに比べて、多神教の日本人はずっと寛容じゃん!」と思っている。実際、和辻哲郎、梅原猛、山折哲雄といった哲学系の日本研究者でそう主張している人も少なくない。しかし、森本氏は「それは違う」とはっきり述べている。

2018年に刊行された『現代日本の宗教事情』という本に紹介されている「世界価値観調査」によると、日本は、調査対象となった6カ国(アメリカ、中国、インド、ブラジル、パキスタン、日本)の中で、「他宗教の人を信頼する」が下から2番目、「他宗教の信者も道徳的」と考える人の割合が最低で、「他宗教の信者と隣人になりたくない」と答えた人は6つの国でいちばん多かった。少なくともこの調査によれば、「日本人=寛容」説は事実に反している。

これら調査対象の国々は、いずれも複雑な宗教事情を抱えているので、他宗教の人と接触する機会は多いだろう。一方、日本人の大多数は同質的で、他宗教の人と深刻なやりとりをする場面は少ない。森本氏は、日本の現状は「寛容でも不寛容でもなく『無寛容』なのかもしれない」と言っている。また、その無寛容は、ひとたび相手を異物と認識するや、情け容赦ない排除を敢然と行う不寛容に転化する、とも。

そもそも、寛容は不寛容によって成り立っている、という逆説がある。「寛容は、その輪郭を不寛容によって定められてこそ、寛容たり得るのである」。一読しただけでは分かりにくいが、これを現実に当てはめて考えれば納得できる。

国家であれ任意の団体であれ、人間の社会には集団をまとめるための原則が必要だ。その原則は時に、挑戦されたり、脅かされたりする。この時に多数派の側の態度、ないしは強者の倫理として召喚されるのが寛容なのだ。

「原則を持つ」ということは、「原則に沿わないものは排除する」ということだから、寛容が発動する前にはかならず「不寛容」が存在しなければならない。ここに「寛容のパラドクス」がある。

また、何らかに対して寛容であるとは、「そいつが嫌いだ」ということが前提にもなっている。「私は騒音には寛容です」とは言えても、「私はケーキには寛容なんです」とは言えないだろう。寛容とは、嫌いな奴と共生するための世俗の知恵のようなものだ。

そもそも、中世の神学では、「寛容」とは極めて実利的なものだったそうだ。不寛容に徹した方がよさそうなものは徹底的に排除する一方、寛容に対処した方が実害が少なそうだとなったら寛容に対処する。寛容は、そうした「多数派・強者のための、統治の倫理」だった。

この寛容に対する態度もそうだが、カトリック神学には一種の「統治者のマナー」のようなものがあるようで、表向きは堅そうな装いを見せつつ、実際には融通無碍な扱いをしていたケースが多い。

この「融通無碍」を言論面で担い、「カトリック言論の便利屋さん」ともいうべき働きをしていたのが、あのトマス・アクイナス(1225~1274)だったらしい。著名な神学者だから抽象的な話でもしているのかと思いきや、金貸しや売春を正当化する論理を展開するなど、相当に生臭い。

トマスの論理の基本は「小さい悪によって大きな悪を防御する」である。例えば、売春を正当化する論理をざっくり言うと、「アンタ、売春を認めなかったら、姦通、近親姦、処女陵辱、獣姦、同性愛(!)が蔓延るでしょ。それに比べたら、売春婦とカネ出してやってるぐらい、『悪』の程度は低い。売春は悪だけど、それによって社会は安定するんだから、まあいいんじゃないの」。

当時の教会はどっぷりと借金に浸かっていたが、金貸しについては「確かに高利貸しは罪だけれど、借金によって自分や他人の窮状を救えるならそれは善になる。元は悪なのにそこから善を引き出せるんだぞ。これぞ『善の錬金術』じゃ!」

牽強付会とかこじつけの論理と言うのは簡単だが、ここには統治する側が現実の社会と折り合いをつけるためのロジックがあるわけで、その態度は確かに「寛容」である。

実は、カトリックのように堅い教義を持つ権威のある団体の方が、現実が教義通りにいかないことは切実に感じているので、「寛容」との親和性が高い。

一方、ルネサンス的な「人間は無限の可能性を与えられた存在である」と考える人間中心主義は、「寛容」と親和性が低い。教育によって人間は善に近づける。社会は理想に近づける。でも、可能性があるのにそうしようとしないなら、そういう奴は積極的に排除した方がいい、という判断になるからだ。事実、人文主義者のエラスムスは、売春婦や乞食を寛容に扱うことを拒否していたそうだ。

ここにも「ゴリゴリの教義を持つお堅い側の方が、人間万歳のリベラリストよりも寛容」という、現代ともシンクロするような「寛容のパラドクス」が存在する。

この寛容のパラドクスを詳しく説明するために、森本氏は、17世紀にイギリスからアメリカに渡った1人のピューリタンを召喚している。ロジャー・ウイリアムス。この人は、「人間の内面はどんな場合でも尊重されるべきで、それを政治に結びつけるのは誤りだ」と考え、それを生涯ずっと主張していた。当時としては珍しい、というか、異端に近い主張である。

このウィリアムス、マサチューセッツ植民地が英国国教会と繋がりを持っていると言ってはかみつき、当局が礼拝出席を強制していると言ってはかみつき、先住民の権利を尊重していないと言ってはかみついた。自分を庇護してくれる人にもお構いなし。ある意味、「融通の効かない、独善的なピューリタン」というイメージにもぴったりはまる人物である。

あまりにも問題ばかり起こすので、最後は逮捕命令まで出されてしまった。そこで、彼はマサチューセッツ植民地を離れて、先住民と土地の売買契約を交わし、新しい植民地を立てた。彼はそこを「プロヴィデンス(神が備え給う)」と名付ける。現在のロードアイランド州の州都である。

「人間の内面はどんな場合でも尊重されるべきで、それを政治に結びつけるのは誤りだ」と考えた彼が入植者に契約を求めた文書は、世界最初の「政教分離」文書とされる。

しかし、宗教的自由を求めた人たちの避難所を建てたら、本当に「すべての人」が来てしまった。端的に言えば、来て欲しくない連中ばかりがやってきた。プロヴィデンスは「ろくでなしの集まる、ニューイングランドの下水溝」とまで言われるようになった。マサチューセッツでは文句を言っていれば良かったウィリアムスは、プロヴィデンスでは「統治する側」として、メチャクチャ苦労することになる。「寛容」に関する彼の考えも、何度も挑戦を受ける。

それでも、ウィリアムスは最後まで、政治的弾圧も宗教的弾圧もしなかった。自分の宗教的情熱を実感していたので、「他の宗教の人でも、自分と同じ宗教的情熱を感じているに違いない。それを、自分とは宗教が違うから、人種が違うからと言って弾圧したり、改宗を求めたりするのは間違いだ」として、その立場を曲げなかった。一部、神学論争でクウェーカーを批判したりはしているが、これはあくまで論争であり、それを政治権力に結びつけることはしていない。「もっとも宗教的で、もっとも偏屈で、もっとも堅い教義をもった男こそ、もっとも『寛容』だった」というパラドクスを、このウィリアムズは見事に体現していた、というわけだ。

万人にお勧めの本とは言いがたいけれど、神学論争とアメリカ独立前のニューイングランド植民地の歴史を丹念に読んだ果てには、「読んで身になった」という確かな実感が得られるだろう。

横手 大輔  1968年生まれ。新潮社の編集者。政治経済情報誌の編集部を経て、現在は新書編集部に勤務。担当書に『国家の品格』(藤原正彦著)、『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)など。どんな分野でも、すでにあるストックを「カチッ」と上手く組み合わせて新たな価値を創出している人の話が好み。宮脇俊三に憧れて編集者になった元テツだが、近年は乗り潰しに出かけられないのが悩みのタネ。
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