黒い空、オレンジ色の猫
「ヒュッゲ」ということばをこのごろよく耳にする。ウィキペディアでは、「ウェルネスかつ満足な感情がもたらされ、居心地がよく快適で陽気な気分であることを表現するデンマーク語およびノルウェー語である」と解説している。家族や友人とおいしい飲み物やおつまみを囲みながら居心地の良いひと時をゆっくりすごす時間を「ヒュッゲな時間」と言うようである。『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース著、前田まゆみ訳、創元社)には、このような、日本語ではことばをもたないエキゾチックな概念がたくさん紹介され、日本の読者は、ことばの窓から見知らぬ国の見知らぬ文化を覗き見て心ときめかせた。
現代に生きる私たちは、「わび・さび」ということばが表す概念を一言で表すことばは日本語に特異で、英語にも中国語にも、まったく同じ概念を指す「単語」がないことを知っているし、日本語にはない概念を表すことばが外国語にはたくさんあることも様々な書籍や媒体を通じて知っている。「わび・さび」は日本人にしかわからないわけではなく、茶の湯や俳諧を学んだ外国人の中には日本人よりこの概念をよく理解する人がいることを知っているし、「ヒュッゲ」は、日本語の単語にはなくても、私たちに理解できることも知っている。つまり、外国語がもつエキゾチックな概念を表す単語が日本語になくても、その言語を話す人たちが自分たちとまったく違う世界の見方をしているとか、進化的に劣っているとか、遺伝子がちがうとか、思ったりしない――「ヒュッゲ」や「わび・さび」 に関しては。
しかし、色に関してはどうだろう。空の色を「黒」という言語、あるいは「青」と「緑」を区別しない言語があることを本書で紹介している。英語は日本語と非常に似た色の語彙があり、「オレンジ色」「茶色」に対応する語(orange,brown)も持っている。
しかし、英語話者は日本語話者の我々が「茶色」と呼ぶ猫の色を「オレンジ色」と言う。こういうことを聞くとびっくりする人が多いのではないだろうか。もしかして、この人たちには、茶色がオレンジ色に見えるとか、「青」と「緑」を見分けることができないのでは、と一瞬でも思ってしまったりしないだろうか ?
もしそう思ったとしたら、あなたは、「青」というのは、客観的に世界に存在する色で、どんな言語でもこの色を表すことばを持っていると無意識に思っているのかもしれない。英語の orangeと日本語の「オレンジ色」は同じ範囲なのは当然だし、英語の「blue」は日本語の「青」とまったく同じ範囲を指す、そして緑と青を区別しない言語なんてありえない、と思っているかもしれない。
本書の第一部では、19世紀イギリスの著名な政治家で首相も務めたグラッドストンがホメロスの韻文を研究する中で「ホメロスの色の描写はおかしい」ことに気づいたことを発端に、色を表す言語表現と色の知覚について探究してきた人類の歴史をユーモアたっぷりに描いている。グラッドストンは、ホメロスが海の色について「葡萄酒の色」と書き、牛の色にも同じ語を使っていたこと、鉄は「スミレの色」とし、緑色を意味する「クローロス」をハチミツの色の描写に使っていたことに驚愕した。そして、ホメロスは世界を総天然色というより、白黒に近いものとして知覚していたと結論づけた。その後、ガイガー、リヴァース、マグナスなど天才と称される賢人たちが精力的にこの問題に取り組んだが、 グラッドストンの始めた迷走に終止符が打たれることはなかった。
例えばガイガーは、旧約聖書における色の表現に探索の場を移した。天空という言葉は聖書で何百という文脈で使われるが、聖書のヘブライ語にも「青」を表す言葉はないことを報告するとともに、青以外の色にも、旧約聖書とホメロスの詩と似た(ガイガーにとっては奇妙な)色彩描写があることを指摘した。これらの発見から、ガイガーは、古代の人たちは、色の見分けをする能力が曖昧だった、そこから人類は徐々に繊細な色の区別のしかたを「色スペクトルの図式に従って」進化的に発達させてきたと結論づけた。
言語はこのように我々の偉大な先人たち、それぞれの時代でもっとも賢いとされた知の巨人たちを惑わせ、迷走させた。本書の著者、ドイッチャーがいう「赤いニシンを追わせた」のである。彼らを迷わせたのは、自分の話す言語は世界の自然な切り分けを反映していて、それ以外の切り分け方はあり得ないという信念バイアスだ。本書の第一部は「言語と思考についての思想の歴史」篇と言えるが、自分の言語にない世界の切り分け方を受け入れるのが知性溢れる人にとってもどれだけ難しいことなのかを鮮やかに示している。
母語という頸木
ウォーフ仮説は、少し前までは、言語が異なると知覚や思考が変わるのかという問題だと受け取られていた。例えばアメリカ先住民のホピ族たちは時間の概念をもたないとか、ホピ語の未来や過去の観念は英語には翻訳不可能であるなど、極端な言説として後の言語学者や思想家に受け止められた。思想家や言語学者たちはこの極端な解釈をウォーフが主張する「言語相対論」と断定し、バカにした。実際、この極端な解釈におけるウォーフ仮説は心理学者の科学的なデータによって否定されてきた。それもあって、強い解釈のウォーフ仮説は今や姿を消したと言ってよい。
一方で、第一部で展開されている過去の知の巨人たちの思考の方向性は、母語がいかに認識の強い頸木となっているかを私たちに教えてくれる。彼らの知性をもってしても、世界は自分の母語による切り分け以外のしかたでの切り分け方が可能であり、自分の言語の枠組みからは想像ができない多様性をもつという事実に気づくことができなかったのである。それは、なぜか。言語の切り分けが、私たちの「同じ」という認識を形成しているからだろう。空の色、海の色、信号機の色をどれも「アオ」と言うことは、それらが「同じ色」であるという認識を強化していくことなのである。ちなみに日本語の「アオ」の示す範囲と英語のblueの範囲は同じではない。これは主に「ミズイロ」という語の存在のためである。日本語話者は、「ミズイロ」は「アオ」の一部とは思わず、二つの色を対比的に使う。しかし英語話者は「ミズイロ」に相当する基本色語を持たないので、「ミズイロ」に相当する色は「アオ」の範疇に入る。その結果、日本語を習得する子どもは「アオ」が指す色と「ミズイロ」が指す色を「違う色」と認識するようになり、英語を習得する子どもは「同じ色」という認識を形成していくのである。
このことは、日本語話者と英語話者に違う「思考」(知覚)をもたらすのだろうか? 答えはイエスでありノーでもある。英語話者も、日本語話者が「アオ」と呼ぶ色と「ミズイロ」と呼ぶ色を見せられたら、その区別はよくわかる。言語が別の単語で区別しないからと言って、二つの色の違いがわからないということは断じてない。しかし、「アオ」の典型色の丸を続けて見せた後「ミズイロ」の丸が現れると、日本語話者は英語話者よりも脳が大きく反応する(脳波を測ると電位の変化が大きい)はずだ。日本語話者を対象にしたデータは報告されていないが、日本語と同様に薄い青と濃い青を別の単語で表すギリシア語の話者と英語話者の脳波を比べた実験で、このことが示されている。言語と知覚あるいは認識の微妙な関係は、色に限らず様々な概念の領域で実験によって示されている。著者のドイッチャーが言うところの「ある特定の表現を頻繁に用いることで培われる習慣」の影響がそこここで見られるのである。
文法的性は演繹推論に影響を与えるか
本書が出版された後で発表された私自身の研究のことを最後に述べさせていただこう。ドイッチャーは、「今日の言語学、認知科学の分野では、言語が思考に及ぼす影響を、それが真正の推論にかかわる場合にのみ有意と認める、という考え方が主流になっている。例えば、ある言語が、べつの言語の話し手なら簡単に解けるような論理問題を解く妨げになることが証明されれば、影響は有意と認められる。論理的推論にこのような制約的影響を及ぼす実例はいまだ提示されていないから、必然的にそれ以外の影響には意味がなく、人間は基本的に同じやり方で思考する―― というのが主流の説である」と述べている(383ページ)。
私は、ドイツ語のジェンダー文法がまさに論理の中の論理、演繹推論に影響を与えるかどうかを調べた。本書にもあるように、ジェンダーの文法は、すべての名詞をその言語が定めたジェンダーカテゴリのどれかに分類することを強要するが、文法の性は生物学的な性と必ずしも一致するものではない。ドイツ語の場合、男性、女性、中性の三つのカテゴリーのどれかにすべての名詞が分類される。人間や動物の男性・女性は文法的性でそれぞれ男性・女性に分類され、性を持たないモノ(机や車など)が中性に分類されるのならシンプルでわかりやすい。しかしドイツ語では、文法的ジェンダーはすべての名詞に付随するので、elefant(ゾウ)やgiraffe(キリン)などの動物の名詞は、生物学的な性と独立である。オスのゾウもメスのゾウも、文法のジェンダーは男性、キリンはオスもメスも女性である。「メスのゾウ」と言うときでさえ、「メスの」という形容詞は男性名詞の格変化をする。生物的性を持たないモノも三つの文法的ジェンダーカテゴリに分類される。 では、ドイツ語話者が文法的性と生物学性を混同することはないのだろうか。この疑問を明らかにすべく行われた心理実験については、本書でもいくつか紹介されている。しかし、我々は「思考の王道」とされる演繹推論において、ドイツ語話者がジェンダーの文法に影響を受けるかどうかを知りたかったのである。
我々の実験では、ドイツ人と日本人に演繹推論をしてもらった。「すべてのメス動物は、そしてメス動物だけが、Xという酵素を持っている」というような命題がモニターに出される。(別のトライアルでは、同じ文が「すべてのオス動物は」に置き換えられた命題が与えられる。)そのあと、ターゲットのことばがモニターに提示され、その対象が「X」を持っているかどうかをできるだけ素早く判断するように求められる。ターゲットには、「キリン」「ゾウ」などの性がある生物と、「リンゴ」「財布」など生物的性がないモノの名前が用いられた。生物的性に関係ない命題も含められた。実験参加者には、ターゲット名詞の対象に対して、最初の命題が真となるのか(命題がターゲットの対象に当てはまるのか否か)を判断してもらった。そのとき、判断できないものは、「偽(ノー)」と判断するように指示した。つまり、「すべてのメス動物は、そしてメス動物だけがXを持つ」という命題に対して「キリン」が提示されたら、それはノーと反応するように事前訓練した。(キリンにはオス動物もいるため)
結果は文法的性が演繹推論に影響を与えることを示した。ドイツ人は一般的に演繹推論のような論理が得意で、生物的性に関係ない命題では日本人参加者より成績がよかった。 しかし、動物の名前がターゲットの時のみ、判断に誤りを犯した。「すべてのメス動物は、そしてメス動物だけが、イドフォームという酵素を持っている」の命題に対して、(文法的性が女性の)「キリン」が提示されるとドイツ語話者は誤って「真」と答える確率が異様に高かったのである。日本人にはこの誤りはまったく見られなかった。しかし、ドイツ 語話者の推論のバイアスは、ターゲットが動物の時に限られ、無生物にまで及ぶことはな かった。この結果はまさにドイッチャーが本書で結論づけている「習慣的に言語での分類 を強要されるために起こる思考の歪み」を示しており、「レンズとしての言語」説は思考 のど真ん中の演繹推論においてみごとに支持されたのである。
ともあれ、本書は最初から最後まで、たいへんわくわくする、知的好奇心を掻き立てられる一冊だ。人はなぜ言語を持つのか、言語をもって人は何をするのか。この巨大な問いを、ぜひ日本の読者のみなさんも著者といっしょに考えて頂けたら幸いである。
2022年1月
慶応義塾大学環境情報学部教授 今井 むつみ