今やあまりお目にかかれない書籍が出た。本書は、2021年4月に出版された竹倉史人『土偶を読む』(晶文社)への反論本である。それも、明確な事実と論拠に基づいて真っ向からメッタ斬りにする、恐ろしく肝の据わった一冊だ。
まず、当時の『土偶を読む』現象をおさらいしよう。同書は刊行直後からNHKを中心とする各メディアで注目を集め、SNSでも紹介記事や書評が大きくバズり、脚光を浴びた。人類学者が独自の見識から打ち立てた「土偶の正体は縄文人の食用植物」説をイコノロジー(図像解釈学)で次々に解き明かしていくその内容は劇的かつ鮮やかで、養老孟司氏を始めとする著名人らの好評も後押しし、半年で六刷のベストセラーとなる。
極めつきは第43回サントリー学芸賞の受賞で、学術書としての華々しい経歴を得る。年末には「みうらじゅん賞」も受賞、翌2022年には子供向けのビジュアル版『土偶を読む図鑑』(小学館)も発売。病気の身代わりや信仰の対象といった従来の説を一蹴するムーブメントとなった。
――が、世間の人気とは反対に、『読む』は考古学の世界ではほとんど評価されていない。その理由を先陣切って解説するのが、本書『土偶を読むを読む』の編者・望月昭秀氏だ。研究者ではないが、いち縄文ファンとしてフリーペーパー『縄文ZINE』の編集長をつとめる望月氏は、『読む』について発売当初から疑義を呈していた。
『土偶を読む』の検証は、たとえれば雪かきに近い作業だ。本書を読み終える頃には少しだけその道が歩きやすくなっていることを願う。
雪かきは重労働だ。しかし誰かがやらねばならない。
そうして検証パートが始まるのだが、浮かび上がってくるのは、とても学問とは呼べない瑕疵や破綻の数々である。
たとえば表紙の写真の中空土偶(カックウ)。『読む』でも表紙を飾ったこの土偶は、イコノロジーを用いてクリの精霊だと断定している。たしかに写真で見ると形は似ているが、実は中空土偶には頭部に二つの穴が空いている。この欠損について、出土した北海道南茅部から遠く離れた町田市田端東遺跡にて、「まっくう」と呼ばれる顔つきそっくりの土偶が発見されており、こちらの土偶にはラッパ状の突起が付いているのである。突起がついたらまるでクリには見えない。
こうした類例や頭の欠損について、『読む』では補足程度に少し触れているのみであった。先行研究や類例に当たるのは研究者の基本である。望月氏はこう推測する。調査不足か、植物であるとする結論ありきで恣意的な資料選択、写真比較を行っているのではないか。
また、類例に加え、「編年」の視点も『読む』には欠けている。土器や土偶はどの年代も造形デザインが全く同じではない。グラデーション、すなわち形態変化が起きており、新旧の配列があるのである。日本考古学において、編年はすでにしっかりと整備されており、これをたどらない考察は「ただのオカルト」と望月氏は厳しく追及する。
類例と編年の無視以外にも、食用植物利用の証拠の欠落が指摘される。長野県棚畑遺跡の縄文のビーナスを「トチノキの精霊」としているが、縄文中期の中部高地でトチノミを利用していた形跡はない。遮光器土器=サトイモの項では、サトイモの栽培可能範囲を北海道道南まで広げているが、そもそもサトイモは寒さに弱く、遮光器土器が出土する北東北で食べられていた証拠は見つかっていない、等々。
結論として、望月氏は『読む』について、読み物としては面白いが、考古学的なデータで見れば「限りなく零点に近い」と辛辣に評する。自説に合致する資料のみをピックアップし、反証的な事象は無視する。いわゆる確証バイアス、ならびにチェリーピッキングである。しかも「豊作」と言っていいほどに。イコノロジーがユニークなのは確かであるけど、「似ている」だけで突破できるほど学問は甘くない。『読む』の語り口を意識したのか、なかなかに軽妙な言い回しでツッコミを入れていくのも本書の特徴だ。
そして、『読むを読む』はこれでは終わらない。後半は、学術書はこうであると言わんばかりに、土偶の研究史、縄文研究の最前線、考古学者や学芸員らによる対談を収録し、土偶の奥深さを十二分に味わえる構成となっている。『読む』の引用文献がネットでダウンロードできるものばかりだったのに対し、望月氏は考古学者に直接取材したり自身も対談に加わったりと、徹底して行動している。
その中でも最も興味深いのは、『読む』の誕生背景と、著名人やサントリー学芸賞選考委員をうならせた土壌についての論考だろう。
『読む』において、竹倉氏は自説が考古学者たちに冷たくあしらわれたことを綴っている。それも、「ジャッジを下すのは専門家ではない」「これ以上に合理的な解読があるならぜひ教えてほしい」といった具合に、かなり大上段な調子である。あとがきでは、私の仮説が検証され、定説として社会的に承認されることを望んでいるとまで書いている。
これを受けてか、サントリー学芸賞の選評も、「専門知への挑戦が問題提起の中核となっている」として、賞にふさわしかったとしている。つまり、『読む』が示した研究成果よりも、「閉鎖的で保守的な考古学者界隈」対「自由な発想の在野研究者」の構図がウケたと考えられるのである。
こうして見てくると、『読む』と『読むを読む』が、土偶の謎にとどまらない、今の時代において度々可視化される重要議題を含んでいることがわかる。人間は「物語」に弱く、対決構図が大好きで、とりあえずリベラルっぽいほうに無批判で肩入れしてしまう。一般読者は専門知識を有さないので仕方のない面はある。が、ことに知識人・文化人と称される人々が、分野違いと言えども専門知を軽視するようなナラティブを評価してしまったのは不可解である。最初から一般読者と差はなかったのかもしれないが。
ともあれ、『読む』がなければ『読むを読む』は生まれなかっただろうし、学問の場では検証・対決は当たり前で、『読む』が望んだことでもある。縄文人が土偶に込めた感情にロマンを抱かせ、現代人の陥りやすい認知バイアスを照射する、またとない教材二冊である。