事実と向き合った時に引っかかるもの、そこに事件の深い闇がある 清水 潔 ✕ 石井 光太
『「鬼畜」の家』刊行記念イベント
清水: 確かに大きなメディアは殺人事件などをあまり扱わなくなってきたと思います。昭和20~30年代、新聞の一面トップの多くは殺人事件でした。かつては事件に対する関心が高かったんです。『事件記者』なんていうドラマもあったぐらいで。それが、報道が多くなると驚きが無くなってきたのか扱いも減っていき、取材も少なくなっていく。“珍しい”事件は取材するんですが、それでも深いところまで掘り下げなくなっています
これは読者の関心度の問題ですが、一方メディア側の問題もあります。私は雑誌記者時代もテレビに移ってからも、一度も記者クラブに所属したことがなくて、それが功を奏したのか、自分でテーマを見つけ、徹底した取材をして、報道するという調査報道のスタイルが自然と身につきました。しかしマスメディアの記者は、ほとんどが記者クラブに所属しています。そうすると、そこで得られる情報がほぼすべてという発想になりがちで、そこから先の深い取材をするとか、自分の力で掘り起こすという発想がなくなります。
いつの間にか、取材対象が事件ではなく捜査状況になってしまう
石井: 今回の本で最初に取り上げたのは、ネグレクトによって子供が死亡した厚木市の事件です。発覚した当時は「居所不明児童」という言葉と共に話題になりました。マスメディアとしては珍しく1~2週間は報道されていて、虐待事件の中でも数年に1度の大きな事件という扱いだったと思います。そんな事件でも、犯人である父親に面会に行ったのは、僕の他には神奈川新聞の記者がひとりだけ。ほとんどのニュースが警察の情報を右から左へ流すだけで終わりですが、犯人と会ってみると、警察とは全然違うことを言い始めます。まったく違う事件の構図が浮き彫りになるんですね。
テレビや新聞は日々起きることに対して飛び回るように動いていますからしょうがない点もありますが、警察からもらった情報をポンと出しただけでは事件を検証することはできません。でも、大多数の人、時にはテレビのコメンテイターやジャーナリストでさえ、その表面的なニュースを見てだけで意見を言おうとするので、真実とはズレが生じてしまう。メディアでは、そうしたことが日々くり返されている気がします。