傷跡から血が滲み出ているような一冊だ。
読み終えた後もずっと「凄いものを読んだ」という余韻が消えない。早くも今年のベスト級の一冊に出会ってしまった。本書は当事者ノンフィクションの傑作である。
著者は「修復的司法」の研究者である。修復的司法というのは、1970年代に欧米を中心に広まった紛争解決のアプローチで、従来の刑事司法では、国家が犯罪者を処罰することで問題を解決しようとするのに対し、修復的司法は、被害者と加害者の対話を中心に置き問題解決を目指す。
著者には性暴力の被害にあった過去がある。修復的司法の研究者を志したのも、自らの被害体験と深くつながっているからだった。そして、これがとても重要かつ繊細な機微をはらんだポイントなのだが、被害者だからこそ、加害者との対話に興味を持った。
だが当事者であることを著者はずっと明かせなかった。なぜならカミングアウトすれば「加害者との対話を望む被害者」と単純にラベリングされてしまうのが落ちだからだ。そのことに耐えられなかった。
事はもっと複雑なのだ。著者が研究者の道を歩み始めるまでにはとても長い個人的な物語がある。最初から加害者との対話を望んでいたわけではない。しかも回復したわけではなく、いまも「痛む古傷を抱えながら生きているサバイバー」である。
研究者の立場で性暴力被害者の声に耳を傾けるときも、著者は観察者に徹することができない。当事者の痛みに触れるたびに、「体の奥底が震え、私の心は共鳴した。文献資料を読みながら、フラッシュバックを起こし、泣きながらページをめくった」。自らも被害者であるという事実を伏せてきたことに、「ずっと嘘をついている」と罪悪感を抱いてきた。
著者が「そろそろ本当のことを語ろう」と思ったのは、自分の経験を語ることで、若い世代や生きる上で何らかの痛みやマイノリティ性を感じている人の役に立てるかもしれないと考えたからだった。著者は自らの体験を繊細な手つきで明らかにしていく。その時々の心や体の変化が丁寧に語られていく。その記述は、性暴力被害を一般化して語ることの危うさを教えてくれる。同時に本書には〈赦し〉をめぐる切実な問いかけもある。きわめて個人的な物語と普遍的なテーマとが同居しているのだ。本書の素晴らしさはそこにある。
著者は19歳の時にレイプされた。相手は5歳上の男だった。詳細はここでは書かないが、これだけは書いておきたい。行為が終わった後、うずくまって痛みに耐える著者をベッドの上に放置してテレビをつけた男は、そこで報じられていた付属池田小事件のニュースをみながらこうつぶやいたという。
「俺はこういうの、許せないんだよな」
被害にあった後、著者は苦しみ続ける。精神科に通い、無神経な医師に二次被害を受けたことや、大学院の受験に失敗したこと、自助グループに参加して再び歩きはじめるきっかけを手にしたことなどが語られていく。
ある時、著者は加害者に連絡する。憎しみが膨れ上がり、このままでは自分が壊れてしまうと追い詰められ、いっそ「彼を赦そう」と思ったのだ。知人から電話番号を聞き出し、電話口で自分の気持ちをまくしたて、「あなたのやったことは暴力だったと思っている」と必死の思いで訴えた。男は「わかってる。悪かったと思ってる」と答えた。
ところが男は続けて、「ところで、お前さぁ」と話題を変えた。真剣な著者を前に男はあっさり話題を変え、まるでひさしぶりに会った友人に語りかけるようにこう言ったのだ。
「前に論文賞とったらしいな。新聞に載ってたよ。お前すげえなあ」
電話を切った後、著者は床が抜けて奈落に落ちるような感覚をおぼえた。男はわざと向き合おうとしなかったのではない。著者の話が本当に理解できていないのだ。なんと残酷な場面だろう。
残酷なのは加害者だけではない。著者からすれば、「支援者」(精神科医やカウンセラー、弁護士、研究者、民間団体のスタッフなど)も要注意だった。あるシンポジウムで、壇上で被害経験を語っていた当事者が言葉につまり、うまく話せなくなったことがあった。すると隣にいたフェミストのカウンセラーが引き取ってこう言ったという。
「みなさん、被害者っていうのは、こんなふうに話せなくなってしまうことがあります。だから、私たちが隣にいて、解説する必要があるんですよ」
著者は全身の血が沸騰するような怒りをおぼえた。これでは被害者がまるで見世物である。実際、この手のシンポジウムによばれた性暴力被害者が、後日、体調を崩すことはよくあるのだという。支援者の無自覚な「上から目線」にも著者は気づいてしまう。
だが、やがて著者自身が、こうした当事者と第三者の関係に悩むことになる。
研究者として歩みはじめた著者は、「水俣」と出会う。ところが大量の文献を読んでも、水俣病患者の苦しみにシンクロできないことにショックを受ける。性暴力被害についての文献を読んでいる時のように当事者の声に共振する感覚が湧いてこない。著者は、他人事としてしか水俣病をとらえられない自分に気づく。
ここからさらに記述は深まりをみせる。「当事者とは何か」という問いをめぐって、視点は社会運動史までひろがっていく。著者自身の体験を手がかりに、目の覚めるような思考が展開される。そこから「修復の思想」が立ち現れるのだ。気がつけば、著者の思考が深まっていくプロセスを、息をつめ見守っていた。
〈赦し〉とは何だろうか。精神科医ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』は、「トラウマ」の概念を広めた古典的名著である。この本と出会ってからというもの、著者にとってハーマンは最大の仮想敵だった。
それは〈赦し〉をめぐる見解の相違だった。ハーマンは性暴力被害者の〈赦し〉など幻想に過ぎないと切り捨てる。当事者は加害者を赦す必要はなく、トラウマが癒されれば、加害者などに興味はなくなるという。
だがそれは被害者を「心の傷が癒されるべき存在」として矮小化することではないか。当事者としての著者の直感が告げていた。「ハーマンにすら見えなかったものが、私(たち)の世界にはある」
著者に響いたのは、哲学者ジャック・デリダの言葉だった。『言葉にのって』という本の中でデリダは、こちらが赦してやろうと思えるもの、赦す理由を見出せるものを赦すのであれば、それはもはや赦しではないと述べる。ではデリダの言う〈赦し〉とは何か。「赦すことのできないでいるもの」を赦すこと。それこそが〈赦し〉だというのである(「正義と赦し」)。
デリダはここでは主に南アフリカのアパルトヘイトについて語っているが、もちろんユダヤ系フランス人の哲学者の念頭には、ナチスのユダヤ人虐殺もあっただろう。だがデリダの言葉はきわめて今日的でもある。性暴力の被害者がカミングアウトすると、ネットにひどい中傷があふれるが、こうした心ない連中ですらもデリダは〈赦し〉の対象だと言っているのだ。
はたして「心ない人」や「わからない人」と理解しあえる日など来るのだろうか。当事者が加害者に、あるいは無神経な支援者に〈赦し〉を与えることなどできるのだろうか。
それはわからない。だが本書の中に、希望の萌芽のようなものを確かに見た。著者が長い「自分語り」の末に辿り着いた現在地については、ぜひ本を読んで確かめてほしい。
著者は修復的司法を、今という「点」で考えるのではなく、「流れ」のなかで種子が芽吹き、花開いて展開するようなものだとする。著者自身の道のりもまさにこのプロセスを辿っているように思える。この本はその芽吹きのひとつかもしれない。この小さな芽から、気高く美しい花が咲くことを願ってやまない。
この本も、本書と響き合っている。
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